気を遣うことについて
いつもお世話になっております
誰かと比較するわけではありませんが、私は過剰に周りに気を遣ってしまっているように思います。
相手は友達はもちろん、家族にさえ本心を言えません。
それは相手を信用していないとかではなく、どうしてか躊躇ってしまうのです。
本当に心が休まるところというものがなく、最近疲れてしまいました。
こんなにも周りに気を遣ってしまうのは普通のことなんでしょうか。また、どうしたら心が楽になれるでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
それは素晴らしいことだと思います。
気をつかうことができない人もたくさんいますからね。
先日あるお坊さんが言ってたのですが、
「目と耳は2つなのになぜ口は1つだけなのかな?それは2つの目で相手のことをちゃんと見て、2つの耳で相手の話をしっかり聞いて、でも口は一つだから相手の半分だけ喋りましょうね。」
とのことでした。
ですから、あなたはこれまで通り周りの人のことをちゃんと見て、話をしっかり聞いて行動するのがいいと思いますよ。
ただ、せっかく口も1つだけあるのですから、少しは自分の意見や思いを発言する様に努力しましょうね。
とくに相手を傷つけない発言なら遠慮は要りませんからね。
相手の意見に反対の発言をしたい時は、相手の意見を認めてから反対の発言をするとオブラートに包まれて相手をあまり傷つけないですよ。
また、自分の意見が否定されるのが怖いなら、否定されても「なるほど、そういう考え方もあるのか」と前向きに受け止めたらいいですからね。落ち込まないでくださいね。
気遣いはコミュニケーションの技
こんにちは。仏教では何事も中道、つまり「良い塩梅」が大切だよ、と言います。気遣いしっぱなしも、気遣いなしも極端な態度。コミュニケーションが上手じゃない、といえます。
先ずは本心を打ち明けられる相手が必要ですね。お勧めはお仏壇の仏様やご先祖様。何を言っても、どれだけ言っても黙って受け止めてくれます。そうやって、「自分の本心を表明する」相手を作り、体験してみてください。
さて気遣いする事は、相手との軋轢を避けるというメリットがあります。自分に余裕があるなら、してあげたら良い。円滑なコミュニケーションが取れるのは、幸せな道です。けれど、自分が好きな苦しくなる、余裕がなくなるなら、それは打ち明けなきゃいけません。極端に至っているからです。
その結果、「いつも通り」の円滑さは失われるかも知れません。問題が起きないかも知れません。けれどね、問題が生じたら対応すれば良いのです。そういうリカバリー能力も、コミュニケーション能力の一つです。
「良い塩梅」というのは、経験して練習しなければ手に入れられません。その間には失敗もあるでしょう。けれど安心して。若いうちの失敗は、成長の糧です。自転車だって、転びながら覚えたでしょう?生まれ持ったものではなく、練習の賜物。コミュニケーションも同じですよ。
質問者からのお礼
御二方、貴重なご意見誠にありがとうございました。まず三宅様からお礼を申し上げたいと思います。
お坊さんのお話、とてもハッとするもので、感心しました。少し横道にズレてしまう話ですが、先日友人にずっと悩んでいたことを打ち明けました。私自身その話以上に込み入ったことを誰かに話すことは初めてで、否定されたり流されたりすることが怖かったのですが、途中から声を震わせて話していると、友人が涙を流して話を聞いてくれていました。思っていることの半分だけでも打ち明けることに怖気付いていましたが、話して本当によかったと思いました。凝視、傾聴の心意気を忘れず、自分の内にあることも話して行けたらと思います。本当にありがとうございました。
お次に佐藤様へお礼を申し上げます。
貴重なご意見誠にありがとうございます。
御先祖様ではないですが、何年か前に飼っていた愛兎のお墓の前で本心を言うことは時々しておりました。きっと天国で「ああまた言ってるよ」と思われているかもしれません。
問題を起こさないように穏便にと、確実で健全な道ばかり選んで歩いてきたものですから、傷ついた時の対処や躓いた時の立ち直り方を分からないままにしていました。円滑にコミュニケーションをとることに集中するのではなく、時には打ち明けることも必要だと感じました。失敗しても上手く立ち直れるように、少しずつ努力し、精進します。ありがとうございました。