愚痴の聴き役、着地が暗くなるのを防ぎたい
良かれと思い愚痴を聴いていると、雲行きが怪しくなります。何故でしょうか?
お坊さんはどのようなことに気をつけて話を聴かれていますか?
母親がよく昔話&モラハラの父親について愚痴ります。
話している間、私はうんうんと頷いたり、愚痴に共感したら私の考えを言ったりします。
大抵1時間以上、最高記録は3日間その話題だったことがあります。
さすがに話し疲れてくるのか、3時間以上たつと雲行きが怪しくなります。
私ばかり話している、
こんなに話しても私の苦労がわからないんだろう、
本当はどうでもいいと思って聞き流しているんだろう、
あなたは自分の意見がないのか、
私はそんな人間に育てたつもりはない、etc
今度はいじけるのと、私への不満になります。
ここで質問です。
話が後ろ向きになっていくのはなぜなのでしょうか?
傾聴して相手に合わせて頷いたり、相手の気持ちに同調したりしたのですが
さらに愚痴に拍車がかかるだけでした。
よく本では、
気分的にスッキリしたり、自分を振り返れたりしているようなのですが、
私の場合、傾聴してもますますいじけたり、矛先が私に来たりします。
話し終えた後、母は話せてスッキリしたというより、不満が湧き上がって止まらなくなり、
私に人生に失望したというような怒り心頭で、話を打ち切り家事をしに行きます。
私は人からの愚痴を聴くことが多いのですが、
最後にはほとんど、お互いに気持ちが暗くなります。
どのように聴いたらもう少し前向きな聴き方が出来るでしょうか?
前向きな聴き方以外に、こんな聴き方でも良いと思う、というのはありますか?
長文ですみません。
ご回答いただけたら幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
相槌の打ち方とか工夫してみては?
あなたは心優しい人ですね。愚痴が多い人に真面目に付き合っている。ちゃんと傾聴もできているじゃないですか。カウンセリング理論で有名なものにロジャースの来談者応談療法というのがありますが、この一番大事なものが傾聴とされています。せっかく貴重な時間を割いて、話を聞いてあげているのに、「あなたは聞き流しているのか。自分の意見がない。」などというのは間違っていますし、自分の意見を言ったところでそういう人は自分の考えと違うとむきになって言い返してきて、口論になるのが目に見えていますよ。あとは相槌の打ち方を変えてみるぐらいしか思いませんね。「そうだね。」とばかり相槌を打っていると、相手は聞き流してるんだなと思うと思います。「そうだね。」と「そうなんだ。」を使い分けることです。自分の知ってることは「そうだね。」で良いのですが、自分の知らないことに関しては、「そうなんだ。」と相槌を打つことです。自分も失敗したことがありまして、全て「そうだね。」で相槌を打っていたら、自分がすべてわかっているように思うからやめてと言われたことがあります。ちょっと違うなと思うときは、「それは違うでしょう。」と口をはさむ必要があるでしょうね。その時に口論にならないように気持ちを落ち着けて冷静に答えていく必要はありますが。「私はこう思うがあなたはどう思うか。」とか限定付きで話したほうが良いですよ。じゃないと対話にならないですから。「またこれは私の一意見であり、あなたが従うか従わないかはあなたの決めることです。」というのも大事です。というこのこのアドバイスも私の一意見でしかないですから。それでも怒るのなら、いっそ聞かないのも一つの手では?お互い嫌な気分になるだけでしょう?
追記
転落院さんの脳科学からの観点興味深いです。大脳辺縁系でも間脳の視床は嗅覚以外の神経の中継所ですが、快不快しか感じることができません。もっと細かな判断は大脳皮質の感覚野で行われます。ちなみに、
視床下部に食欲・性欲などの中枢があります。
主語が判別できない古い脳
”話が後ろ向きになっていくのはなぜなのでしょうか?”
理由ははっきりしています。それが単なる「悪口」だからです。
たしかに、他人の悪口を言うと清々した気になれます。しかし、あなたのおっしゃるように長い時間それを続けていると大変気分が悪くなりますね。
人間は大脳新皮質という進化の過程における新しい部分で、言語を話したり理屈を考えたりします。しかし、古い脳と言われる大脳辺縁系などではいわゆる【主語】を分別することができません。したがって、例えば、うざい、きもい、死ね、消えろ、その他諸々、誰かの悪口や陰口は、新しい脳では誰か他の人の事を言っているつもりでも、古い脳は自分にも言っているように錯覚し、ダメージが蓄積されていきます。これがストレスとなり、やがては心身を著しく蝕んでいきます。
ストレス発散のつもりが、逆にストレスを溜め込んでいってしまうのが”悪口”だったりするわけです。なんとも皮肉なものですよね。
【カウンセイングマインド】とよばれる「傾聴」「共感的理解」「肯定的配慮」の眼目は、相談者の自発的行動を促すとともに心理的な【カタルシス】(心の浄化作用)がなされる事にあります。ここを抜きに傾聴しても、来談者のストレスを助長するだけだったりします。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
そうなのですね。相手が聞き役だとしたら、私の愚痴を3時間も聴いてくれるだろうかと思うと、難しいだろうなとは考えておりました。
聴き方を振り返りはしますが、聴くこと自体、客観的に観ることができて、少し肩が軽くなりました。ありがとうございます。
教えて頂いた相槌を参考にしてみます。
同調しながら、けれども相手の話に飲み込まれ過ぎずに冷静になりながらは難しいとは思いますが、必要なことと思います。出来るようにしていきたいです。
疲れたら、サボるのもありですね。
ご回答をありがとうございました。
転落院 様
ご回答ありがとうございます。
ストレス発散をしているつもりが、実はそうではなく、自分に返ってきているときもあるのですね。その点は残念ですが、主語が分からない脳の部分もあると知り、興味深いです。
話を聴いてくださる方と、私の聴き方とではなにかが違うな―と感じておりました。長年の疑問が解けました。ありがとうございます。
ご指摘頂いた傾聴の眼目を意識するのは、とても難しいです。
普段出来ていない分、いきなりやろうとすると私ひとりに片寄った見方になっていないか、不安になります。
けれども私に足りない何かを少なくとも学問的に一端は知ることが出来ました。傾聴の難しさや苦労をわずかですが知ることができました。
まずは少しずつ傾聴を勉強していきたいと思います。ありがとうございました。
井澤様
追記ありがとうございます。
脳は感覚を細かく役割分担しているのですね。ぼんやりとは存じてましたが改めて考えると、脳って大事だなぁと思います。ありがとうございます。