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恋人が新興宗教の信者でした

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いつもお世話になっております、相談させてください。

恋人が新興宗教の信者をしています。

本人の祖母が信者で3世のようですが、家族やコミュニティの影響が強く「宗教に入ってくれとは言わないけど、宗教の関係も大切にしたい」と付き合ってから言われて知りました。

私はお寺も神社も機会があるときにお参りをするような人間ですが、普段から宗教を意識したことがないのでびっくりしました。しかし本人が自分の宗教を押し付けてこないのであれば「宗教が付き合う付き合わないの理由にはならないから」と言いました。

しかし先日初詣に行こうと誘ったときに、一緒に出掛けはしたものの「私はお参りしないから」と言われ、周りで楽しくお参りをしている人たちを眺めながら、やっぱり宗教が違うと一緒に楽しめることが減るのだろうか、というのと何となくこれからも頭の中で宗教のことを考えながら付き合うことになるのかなと思ってしまいました。

恋人のことは好きなのですが、デートに行くときも話をする時もなんとなく「これはタブーじゃないか」などと考えてしまうなど、宗教のことが頭をよぎるたびにもやもやします。

恋人とはこれからも付き合っていきたいと考えていますが、どのようにすればこのもやもやを乗り越えられるでしょうか。また、このもやもやはどこから来ているのでしょうか。

ご相談させていただけますと幸いです。
よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

愛<宗教 は 危険 家族<宗教はアウト

宗教は家族やパートナーよりも宗教を優先させるようなものはカルト系のものがあります。
私は仏教ですがキリスト教とも神道さんとも新興宗教ともそこそこ仲良しです。そういう自由さ、寛容さがない宗教って果たして宗教と呼んでいいかどうかわかりません。主義思想と思います。私どもお寺人間は個人の家庭や恋愛に干渉しません。
人としておかしい事、あってはならないことを申し上げることはあっても、私生活に過干渉はいたしません。
最近の新興宗教は自分たちの組織に取り込むために生活の大部分に干渉・介入するものもあります。
私はそういうものは宗教とは思っていません。危ないと思います。宗教の名を借りたカルトも多いです。
宗教ってそもそも思想や主義ではなく、自由なものですから、堅苦しい取りこまれがあるのでしたら危ないと思います。
最近の新興宗教は一種のコミュニティなのでしょう。組織の中で仕事を回してもらったり、連帯感によって自分たちの団体に営利があることで生活を支えてもらっている面があるそうで入信というよりコネもあります。
もしその女性と恋愛を続けていく中で彼女が真の自由やあなたよりも宗教に縛られることを選択するのであれば、今度はあなたのパートナーとして家庭的な人間にはならずドハマり系宗教人間になってしまう危険性があります。いくら愛と言ってもそっちを優先する人を無理にパートナーとして選ぶべきではないと思います。
脱会できればいいですがまぁ難しい問題です。いずれあなたも私の事を愛しているのであれば入信してくれとかになったら愛より宗教「愛<宗教」ですからリスクは高いかと。本来、宗教って徒党を組んだり、巨大組織になる必要もなく、個人が個人の中で人生の安心感を得られれば良いわけですから、組織に縛られる系のものでしたらあまり近寄らない方がよろしいかと思われます。
仏教や自由な精神は宗教を優先しろ、ではなく人間性を優先しろ、という教えです。それが本来の宗教というもの。
本人の自由を拘束しませんから新興宗教とは異なるものです。

いくら相手が可愛い、いとおしい、死ぬほど好きだと言ってもアイドルと結婚するパートナーもたった一人です。
問題はあなたが彼女を愛する気持ちをどこへ向けるべきか。
女性を愛する気持ちは愛する気持ちとして純粋なもの。
愛とは愛するに値する安心できる家庭的な女性に向けられるべきものでもあります。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

その人を観たらどうでしょうか?

愚僧の知り合いにAさんと、
Bさんがいます。
おふたりとも同じ新興宗教を
信仰していらっしゃいます。
Aさんは気軽に、
神社仏閣巡りをされます。
Bさんは鳥居をくぐりません。
同じ新興宗教なんですがね?
どうなんでしょう。
Aさんは特に問題ない。
Bさんは禁止されている。
とおっしゃいます。

価値観だと思います。

愚僧はいかなる宗派、
宗教にも尊敬と敬意を
現します。
否定はしません。
いいも悪いもわからない。
選択の問題だからです。

あなたが許容できるのか、
どうか、お考えになって、
彼女との関係をどうするのか、
決めたらよろしいかと。

彼女の家族中がそうだと、
自立性を持つのは、
現実的にかなり厳しかと、
入信してもよいとの、
覚悟がいると思います。

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浄光寺の三浦康昭です。 くよくよと考えてもしかたがありません。明るく前向きに楽しく愉快に生きていくためのヒントを自分自身も考え続けながら、また少しでも皆さんのお役に立てればと考えています。できるだけ、わかりやすく簡単にお答えしていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。現在も整骨院をやっていますが、医療福祉関係の仕事に長年従事してきました。他に、知的障がい者施設の仕事に関わらせていただいています。また、イジメや引きこもりなど子どもたちのために何かできることがないか、現在模索中です。フリースクールをお寺で開講予定しています。仏教特に浄土学は死ぬまで研鑽だと思っていますが、居眠り専門なのが、課題です。

質問者からのお礼

「愛<宗教 は 危険 家族<宗教はアウト」大変納得がいきました。将来自らが自立性を保っていられるかどうか、自分に問いかけながら考えようと思います。ありがとうございます。

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