幼少期のトラウマで苦しいです
小学校5〜6年の時の担任のにわいせつ行為をされていました。
私はキリスト教の学校に小学校から高校まで通っていました。
早熟で胸の大きかった私は跳び箱の時間で、そいつに胸を二回も揉まれました。
そして、ソフトボールの時間で男の子がいるのにキャッチャーに指名され、みんなの前でわざと大股を開かされました。スキー教室では酔っ払ったそいつに押し倒されて顔を近づけられ胸を揉まれました。
今となっては不幸中の幸で、その時私は同級生にそのことを話しましたが、恥ずかしかったので誰にも言うなと口止めして、友達も誰にも言わなかったようです。
それから精神が不安定になり、順調にあった生理も止まりました。
家族関係がうまくいっていなかった(母が働いていて忙しかった)ので、誰にも相談できずになかったことにして過ごしていました。
学校ではことあるごとに奇声をあげて変人扱いをされていました。
結局、大人になって、カウンセリングを受けた時にその問題が表面化してきました。
ものすごく憤りを感じるし、ぶっ殺してやりたい!!と、本気で思います(もちろんそんなことはしません)
でも、誰もわかってくれなかったし、誰も守ってくれなくて、自分一人で抱え込んで来る以外に道がなかった自分自身がかわいそうで、今でも涙が出ます。
私は、この気持ちをきちんと晴らせるチャンスは来るでしょうか?
男の人が苦手なのはそこから来るのではないかな?と思います。
これからどのようにこの問題と向き合ったら良いのか?ご教授ください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
心のリハビリを、追記
心に怪我をしていたのですね。
カウンセリングを受けているとのことなので、
少し安心しています。
ご自分の心もコントロール出来ているのだと思います。
今は心のリハビリ期間です。
ふと過去の事を思い出すこともあるでしょう。
そんな時は、南無阿弥陀仏と声に出してつぶやきます。
また思い出したら、また南無阿弥陀仏と声に出してつぶやきます。
南無阿弥陀仏と言うと死後は極楽浄土に行けます。それは幸せな事です。
憎い担任のお陰で極楽浄土に行ける。
有難くないけど、有難いことです。
男の人と会話する事もリハビリのひとつでしょう。
仕事、習い事、お見合い、お寺の行事に参加するなど、いろんな機会にいろんな男の人と会話して慣れることです。
優しい人に出会えますように。
追記
怨みに対して怨みをもって返すならば、
ついに怨みは静まることがない。
怨みを捨ててこそ静まる。
これは永遠の真理である。
これはお釈迦様の言葉です。
お釈迦様があなたの為に2500年前に贈った言葉です。
どうか心の片隅に置いておいてください。
大丈夫。きっと道は開けます。
こんにちわ。拝見いたしました。
幼少の頃の嫌な記憶。そんなつらい気持ちを抱えながらよく頑張られましたね。そしておつらかったですね。今まで頑張ってこられたこと、それは誰にでも出来ることではないと思います。
心の底にある怒りに気づけたことも、あなた自身がよく自分の心を見つめておられることだと思います。それは正当な怒りだと思います。まずはその気持ちを肯定しましょう。
自分自身を否定することはやめて、自分自身の親になったつもり、自分を馬か好きな動物にたとえてみてその飼い主になったつもりで自分で自分の気持ちに耳を傾けてみてください。たとえ今は男性が苦手でも「よしよし、今はまだそうだよね」「少しずつよくなってるよ」と自分のペットや自分の子供に声をかけるような気持ちで自分自身に声をかけ続けてみてください。そのことによって少しずつ気持ちは和らぐと思います。そんな風に声をかけてくれる人が近くにいればそれで良いのですがそういう人がまわりにいない場合は
自分で自分を助けましょう。安心感を持って生きていれば安心感を持った人との出会いがあると思います。
気持ちを晴らせるチャンス。相手の事を考えてきる限り、その思い、あなたの気持ちは縛られ続けていると思います。本当の「復讐」とはただ一つ。あなたを大切にしなかった人のことをあなたが大切にする必要はなく、あなたを大切に扱ってくれる人を大切にして、あなた自身が安心して生活をおくることだと思います。その上でもし余裕が生まれたならあなたと同じように苦しんでいる方の手助けをしてあげてください。その行動によってあなた自身の心の中の幼少のあなたを救うことが出来るのではないかなと思います。
あなたはとても優しい心と強い心を持った方だと思います。きっと良き出会いがあると思います。
合掌
質問者からのお礼
早速のご返信をありがとうございます。
カウンセリングにはもう通っていません。カウンセラーの言うことですら信じられなくなったからです。責任を取れないのだったら、なかったことにしていたこの思いの蓋を取らないで欲しかった、と、今は思っています。
結局のところ、誰も自分の責任を取ってくれる人はいない!というのが私が出した最終結論です。
一人で生きていこうと思っています。その強さは与えられました。そんな強さは欲しくなかったですけど。
お坊さんに相談をして申し訳ないですが、南無阿弥陀仏とは言うのはかなり難しいです。
キリスト教では「愛」というものを礼拝などで主張していましたが、愛を語りながら裏ではたった小学生の、初潮が始まったばかりくらいの女の子にわいせつ行為をしていたのだ、という事実が
宗教というものは本音と建前があり、本音では良いことをいっぱい言うけれども、裏は違う、と心の奥底で思ってしまっているからです。
でも、機会があったら一人でこっそり南無阿弥陀仏と言ってみます。言えなくても言ってみる努力はしてみます。
ありがとうございます。
お返事をありがとうございます。
私は自分を否定をしていないし、自分が悪いとも思っていません。
各都道府県でやっているカウンセリングに電話で相談した時もそうでしたが「あなたは悪くないのよ」って。
もし100%のうち、相手がどのくらい悪くて自分がどのくらい悪いのか?という問いがあったら、はっきりと言えます。
相手が100%悪くて私は000000000.1%すら悪くない!と。
私は普通に体育の授業を受けていただけだし、他の生徒と一緒に跳び箱の上ででんぐり返しをするという課題に取り組んでいただけだし、そこで勝手に発情して私の胸を揉んだとしても、私に何の落ち度があるというのか?
私が一番許せないのは、今でもなかったことにして謝罪も何もない学校側とその教師にです。
そういう信心深いところを教えてくれたキリスト教の学校に、人を信じない心を学びました。