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野良猫の事故死

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野良猫の事故死についてです。

昨日、家のすぐそばで野良猫が事故死しました。

亡骸を回収して、ビニール袋に入れ段ボールで今は物置に安置してます。
回収したときはまだ暖かく、ビニール越しですが抱っこをしていました。

市役所に聞いたら、取りには来てくれるものの他の可燃ゴミと一緒に焼却になると言われました。

何処かに土葬してとか、色々考えましたが不法投棄になるなど弊害があり難しそうです。

結果、市役所にお願いをしました。

引き渡す時に段ボールにお花を入れるなど、なるべく出来る事はして送り出してあげようと考えております。

こんな形で亡くなったら野良猫は成仏出来るのでしょうか?

私に出来る事は他に何かあるのでしょうか?

まとまりのない文章ですがご回答願います。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏法を求め菩提心を誓願してこそ成仏に向かうのです

世間では人や動物が死んだら成仏するという俗説がありますがその辺の話は私は知りませんし、信じていません。やさしい気持ちは大事ですが、本当はそういう動物の死や、他の生命の死を機縁として、あなたもお釈迦さまと同じような、自身の真の成仏を誓願することが良い供養となられると思います。
成仏ということを願うのであれば本当にそのように行動するべきであろうと思います。
あなたが救ってあげたい衆生=ネコちゃんを機縁として、あなたがその心のもやもやをこの上ない心へ導いてあげることが仏教です。
迷いを救いに導く作用として転ずるのが菩提心です。
人は猫ちゃんに限らず、縁ある存在が死んだままその後、誰も何も命の尊厳を讃えてあげずにいられないのです。
その命に対する内なる気持ちを最上のありように向かわせなかったならば、その命もぞんざいに扱われ、あなたの心もぞんざいになるのでしょう。
成仏とは人間性を伴うもの。ただホットケ様では無視に等しい。
では成仏とは何でしょう。
人間の精神がこの上ない最高のこころに向かって、確かな定まりを得ることでしょう。
人間ですら縁ある人が亡くなればお墓、ストゥーパを立てて菩提心を誓願します。
あなたも含め、猫も含め、この読者も含め、万人がより良き心「菩提心」へ向かってこの上ない確かな心に導くことが無かったら、一体どこの誰の何の成仏を保証できましょうか。
世間の俗説仏教の成仏とは、生物が亡くなった後、死後の世界で天国めいたところに生まれ安らかになるイメージであろうと思います。誰がそういう風になったと心底証明ができるでしょうか。
子供にはそういう風に説いてもいいとしても、大人はそういう他人任せなファンタジー的な成仏を思い描くのはその生命に対する尊厳を損ねていると思います。
厳しいようですが、罪なく死んだネコちゃんや、不運な事故で死んでいく人たちは、そういう成仏をしているでしょうか。我々生きている人たちが「きっとこうであろう」「こうであったらいいな」と思い描いたファンタジーで本当に浮かばれるでしょうか。私はそういうものは仏教であるとは思ったことがありません。
「この上なく確かな」「間違えのない成仏」以外に成仏などありません。
現代には真の成仏が参究される機会が乏しいのであえて現実の成仏を追求して頂きたく、あえて厳しく申し上げました。ネコちゃんの為にありがとうございました。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

お念仏

「南無阿弥陀仏」と念仏を称(とな)えて、その猫が阿弥陀仏の光明に照らされ極楽浄土に往生できますようにと願いましょう。
あとは、阿弥陀様にお任せするしかありません。
私たちはいつかは死にます。
死に方はさまざまですが、事故死だから特別に不幸だというわけではないです。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ