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どこまでが「いのち」なんでしょうか

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最近、コロナウイルスのニュースを見て思うのですが、私たちは病気の原因となるウイルスやガンなどを医療行為として体から取り除いたり、そのモノを消したりすることがよくありますよね。

それは殺生にはならないんでしょうか?

お肉や魚、野菜などのいのちを頂かずには生きていけないのと、病気の元を殺さずには健康で生きていけないこととはなにが違うんでしょうか。

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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

誰にとって何がどう問題となるのか?

【回答に一部補足注意書きを追加しました】

ご相談拝読しました。
どこまでが「いのち」、すなわち「生命」か?については↓が面白かったです。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/biophys/50/3/50_3_112/_pdf

これによると「生命」とは種々の問題から定義は難しいが、一般的には「自己複製」「エネルギー代謝」「細胞構造」という三つの属性を備えたものであり、ウイルスは「エネルギー代謝」ができないため「生命」としない場合が多いとのことでした。

どうでしょう?

ふ~んという感じでしょうか。それとも好奇心がワクワクするでしょうか?

でもそれで終わりでしょうか?

そこが問題なのではないでしょうか。知的対象・知的関心として「いのち」を論じても「傷み」とならないならば知の遊戯です。

逆に「傷み」となるならば、例え対象がぬいぐるみだったとしても、それを処分することにある種の殺生罪として罪の意識を感じるかもしれません。

仏教として問題になるのはこの「罪」でしょう。

殺生は「(大乗の)五逆罪」です。「五逆罪」は五つの重罪で、無間地獄に堕ちる原因となると言われます。
(追記※単なる殺生が「(大乗の)五逆罪」に当たるかどうかは微妙なところもあるかもしれません)

さて、しかしながら上記の論理からいうと、殺生をしても罪の意識を感じなければ罪にならないかというとそうでなく、これは「謗法罪」に当たるのではないかと思います。そしてもしもそれが殺生と自覚されたならばその時点で「殺生罪」になります。「謗法罪」とは自覚されない罪なのですね。

その「謗法罪」とは「正しい教え」を非難し否定する罪ですが、「正しい教え」を知らない者はそれを謗ることに罪を感じることもないのです。

もしウイルスを排除することがあなたの中で傷みとなり、罪の意識となるならば、その罪を犯すあなたが救われるのかどうかがあなたの仏道となります。

そうでないならばそれで過ぎていってしまう問題です。

そうなると前者ならばウイルスひとつも「いのち」どころか、あなたに「仏法」をうながす「諸仏」として見出されてくるかもしれませんね。

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おきもち

個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

わかりません。

ご質問ありがとうございます。

正直、分かりません。
単に殺だけでなく生という字をくっつけて殺生という表現をするのは何故か。
字の解釈も殺して生きるなのか、殺して生かすなのか。

排除とはウイルスと私とが憎しみ合わなくて済む距離でのそれぞれの生き方の提案なのかもしれない。
消滅させたつもりでも単に分子レベルの分解に過ぎないならば本当に殺したといえるのか。
爪や髭を切ることや、髪の毛を剃ることは殺生にならないのか。
いろいろな問いが私の頭の中を巡ります。

残念ながら自分自身が納得できる答えに巡りあっていないです。

理科や医学分野をもう少し知ることで仏典の心とリンクする接点を見出だしたいなと思っていますが、ボーッと生きてるんじゃないと叱られてしまいそうな回答しかできず、ごめんなさい。

他のお坊様のお考えを参考にさせていただきたいです。

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おきもち

僧侶として長い時間を過ごしてきましたが、 四十年以上経った今でも、言葉や文字にできない思いはあります。 どんなに経験を重ねても、 世の中で起きる出来事や、自分の中に生まれる感情のすべてを きれいに整理して表現できるものではないと思っています。 だから、うまく書けなくても安心してください。 ここでは、無理に言葉を整えることよりも、 いったん息を整えて、静かに耳を澄ますことを大切にしています。 まとまりのない文章でも、途中で止まってしまっても構いません。 言葉になる前の思いが、そのまま置かれてもいい場所でありたいと考えています。
特別な準備や、上手に話すことは必要ありません。 このオンライン相談の時間は、あなたのために差し出された時間です。 話すことだけが人生の目的ではありません。 言葉が浮かばないときは、 ただ呼吸に耳を澄ませる時間として過ごしていただいても構いません。 日常の中で受けている外からの抑圧やストレスから、 ひととき身を離れるための「避難の時間」として この場を使っていただくこともできます。 僧侶である私は、何かを答える人というより、 あなたがこの時間を安心して過ごせるよう、 静かに同席する存在でありたいと考えています。 話がまとまらなくても、途中で止まっても大丈夫です。 この時間が、あなたのペースを取り戻すきっかけになれば幸いです。 なんまんだぶつ。

どこまでもが「いのち」なんでしょう。

自分が生きるために
お肉や魚、野菜などのいのちを
頂いているのと、
病原菌が自己増殖のために
我らの身体を蝕んでいるのと、
同じことだと思います。

何もかもが
殺生しなくては生きていけない…
そういう罪深いものなんだと思います。

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有り難し
おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

素晴らしいご質問です。

命について、病原菌やガン細胞にまで考えが及ぶ程、ご考察なさったのですね。
私も真剣に考えさせて頂きました。

たとえば同じように骨肉腫等で体の一部、腕を切断する事とガン細胞を切除する事は、目的は別々としても「命を守る行為=医療行為」です。病原菌を薬で殺すのも同じです。これを正義だと見なさないとお医者さんは地獄行き100パーセントの職業となり、誰もやりたくないでしょう。
しかし、仏教ではそもそも色々な命がお互いに支え合っているとも考えています。
ガン細胞は元々身体の一部分なので、病原菌についてお話しますが、そもそも病原菌によって沢山の生物は絶滅してきました。人間だけが解決策を見出だしてきたのですから、特殊な存在です。
病原菌に悪意があるとは思えません。病原菌も生きる為に、増える為に活動しています。「それを殺すのはおかしい」と見ると、人間はまともに生きられないですよね。
殺生については人間の正しい生き方の為にお釈迦様が禁じておられますが、同時に命の大切さや相互に関わり合っていることを知りなさいという諭しもあると思います。
長々となりましたが、私個人としては命に感謝する生き方ができなければ病原菌を殺す事も殺生になると言いたいです。食べ物を前にして「(命を)いただきます」と思うかどうかと同じです。
乱文お許しください。

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おきもち

みなさまこんにちは。 浄土真宗本願寺派の緇川(くろかわ)と申します。 島根県のお寺で、住職と本願寺派の布教使、また保育所の理事をしております。 三人の子ども(長男、長女、次女)の育児や、保育所での子どもたちとのふれあいを通して、日々のお念仏のお味わいを深めています。 妻も同じく、本願寺派の布教使です。夫婦で力を合わせながら、少しでも皆さんに浄土真宗のお念仏を味わっていただきたいです。 皆様のお悩みに少しでも寄り添えればと思います。 南無阿弥陀仏

「必要か否か」

「生→死」このプロセスを踏むものは、すべて『いのち』と言えると思います。

その個々の『いのち』を生かすために、「他のいのちを自のいのちのために頂く」という営みを行います。
人しかり、ウィルスしかり…
これは『自然の摂理』です。
つまり、すべての殺生を否定してしまうと、生きることができません。

ただし、「何を頂き、何を頂かないか?」は、各々の判断に委ねられるものです。

「生きるために」ウィルスや病の元は排除し、必要なものは必要な分だけ頂く。

『贅沢』とは、『贅』…余計な
『沢』…潤い、ということです。

必要以上を求めると、余計な殺生が必要となります。

自分にとって最低限何が必要で、何が余計になるか?
その『節度』が大切なのではないでしょうか?

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有り難し
おきもち

曹洞宗寺院の住職です。 GALUCHAT(ガルーシャ)と読みます。 思うところあって『非公開』にて参加させて頂いております。
指名も無いと思いますし、不得手な分野な為、他の回答僧諸師にお任せ致します。

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