信仰
僕は浄土真宗に関心を持っているのですが、浄土真宗の信仰は他の宗教とは明らかに異質ですよね。人間の信心には真の心がないから、他力の信心であると。
そこで単純な疑問なんですが、浄土真宗は信仰する宗教なんですか??
仮に信仰しないのだとしたら、仏に身を「任せる」ことはできないのではないですか??
人間の信心は真ではない。かといって信心がなければ仏に「任せる」ことができない。
この矛盾点を解消したいのです。
また、親鸞や妙好人と言われた人々はどうだったのでしょうか?
HSP気質で生きづらく、人目を気にするあまりすごく不器用な人間です。 しかしデメリットばかりではなく、生きづらいからこそ、生きづらさを解消するために色んな本に手を出しましたし、仏教に出会うことができました。 人生において様々な悩み事があり、お坊さんのご意見やアドバイスをいただきたいと思いました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
南無、そして阿弥陀仏。
"浄土真宗は信仰する宗教なんですか??"
あなたのおっしゃる「信仰」の定義がよくわかりませんが、少なくとも妙な恍惚感に浸ることで救われた気にさせる宗教ではない。
"この矛盾点を解消したいのです"
【機法二種深信】【機法一体の南無阿弥陀仏】・・・などと専門用語を持ち出して、ここでダラダラ説明するのは相応しくないと思うし、どんなに精緻な説明を受けたとしても、それであなたが理解したつもりになってしまうのはいよいよ考えものだ。ところで、前回の回答で述べた正露丸の話を覚えているかい?あなたのこの疑問は、あなた自身がお念仏申す日々の中でしか解消できないと思うよ。
https://hasunoha.jp/questions/42050
"親鸞や妙好人と言われた人々はどうだったのでしょうか?"
ただただお念仏を称え、お念仏を大切にされておられたと思います。
称名念仏の日々の中で、不可称不可説不可思議の功徳が身から滲み出ていた人たちなんじゃないかな。
<追記>
"「南無阿弥陀仏のおいわれ」を知ってもなお、何も感じない"
"信じる気持ちが起こりません"
結構なことじゃないか。
昔、僕の実家のお隣さんが火事を起こした時、僕は近所中から消火器という消火器をかき集めてきて、消防車が到着する前に鎮火させた事があるんだが、あの時までは消火器の性能や避難訓練なんてハッキリ言ってバカしてたし、ましてや消火器の有り難さ、尊さなんてサッパリわからなかったよ。でも日頃は鬱陶しい、邪魔くさいと思いながらも時々は点検し、きちんと常備しておいたおかげで大惨事にはならずに済んだんだ。消火器が真価を発揮し、消火器の消火器たる真の有り難さを思い知るなんて、本当は無いに越したことはない。そのなものを思い知ることなく暮れていけるのなら、これ以上の幸せはないだろう。しかし、いざ火事が起きた日にゃあ、これほど頼もしいものもない。
じつは念仏も同じようなもんだ。
まさに信心です。
ご質問読ませていただきましたが、
愚僧には
よく理解できませんでした。
残念ながら。
阿弥陀さまを信じる、
後生を信じる、
阿弥陀さまの救いを
信じる。
信じきるのが真宗だと、
思っていました。
他の宗教、宗派と違う?
信じる教え、
信じる対象、目当て、
が違うのではないでしょうか?
自力と他力、
自分では如何ともし難い、
ことだから、
少しも自分では、
自力ではどうにもならない、
この身の上ですから、
返って、
信じる気持ち、
頼む気持ちが、
深まるように思いますね。
他との比較ではなく、
あなた自身が何を、
信じるのか?
との一点だと思いますよ。
このお粗末なわたしには、
阿弥陀さまのお救いを
当てにする以外に
ないのですよ。
御苦労さま
仏教はAwakeing(目覚め、気づき)です
仏教・浄土真宗にご関心を持って頂き有難うございます。漢字の「信仰」は信じ仰ぎみる事ですが、浄土真宗では「信心も(自らの行為でなく)如来さまからいただく」とよく表現します。また日常生活で口頭では「私は貴方を信じてますからね」と言ったり言われたりする場面があるかと思いますが、でもそれは「実はチョットだけ疑っている」という深層心理の反映でもあるとも言えます。人間は100%自ら信じ切れない煩悩をもっているのではないでしょうか? 英語の表現だとわかり易いのですが、仏教はBelive(信じる)でなくAwakeing(目覚め、気づき)だと思います。 フィクション(神の奇跡、超自然現象)を信じるのでは無く、FACT(真実)に目覚めていく事が肝要と思います。仏教は私が真理に目覚めていく(気付かされていく)教えであり、その歩みでもあります。
質問者からのお礼
回答ありがとうございました。お二人の方から回答してもらえるとは思っていなかったので、とても嬉しく思います。
花山雲吉様、回答ありがとうございます。自力ではどうにもならない身であるから、返って信じる気持ちが強くなる、というのは、とてもそう思いました。そうなのです。僕も自力ではどうにもならないので、阿弥陀様にすがるしかないとは考えていますが、「浄土真宗は自分から信じるものではない」や「信仰する気持ちもない愚かな凡夫を救うのが、浄土真宗だ」という意見もあり、よく分からずに質問した次第です。
転落院様、前回に引き続き回答してくださり、ありがとうございます。
正露丸のお話は覚えていますよ。しかし、まだまだ未熟な僕には、念仏をしても何も感じません。
ちなみに、二種深信は実感しました。 機...自分には何もない
法...本願の内容がハッキリした
しかし、「南無阿弥陀仏のおいわれ」を知ってもなお、何も感じない。本願の内容が分かっても、結局その本願の内容を信じられなければ、あまり意味がないように思えたのです。
しかし、信じる気持ちが起こりません。
お二人の方、回答ありがとうございました。自分でも何を書いているのか分からなくなってきたので、読みづらかったら申し訳ないです。
転落院様、回答ありがとうございます。なるほど。僕も念仏を称える生活をしていたら、いつか念仏の有り難さに気付くのでしょう。
その時まで、念仏をする生活をしていきたいと思います。ありがとうございます。
久念様、回答ありがとうございます。
たしかに、浄土真宗は目覚めの宗教のようですね。闇雲に教義を信じるのではなく、法によって信じさせられるといった感じでしょうか。
でも僕は人一倍疑い深いので、難しいところがあるようです。疑い深いばかりに、人間関係にも影響しているので困ったことです笑。人間の心は分かりませんから、つい疑ってしまいます。ある種、人間を信頼するのも信仰と似ていると思いませんか?信仰とは仏や神を信頼して身を任すことだと僕は考えています。
このまま仏法を聴聞し、いつしか目覚めを得て、気楽に念仏を唱えられたらと思います。
人間には100%信じ切れる心はない、という言葉には気付かされるところがありました。ありがとうございます。