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ずっとモヤモヤが晴れません

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有り難し有り難し 13

初めまして。私はフリーターで飲食店で働いています。私は結構ハッキリとした性格で感情的怒りはしませんが、我慢して我慢して我慢の限界がきたら怒ってしまいます。それが店長であれ立場関係なく間違えてる事は間違えてるとハッキリと言える性格をしています。
ですが、限界をきて怒っているときはどうしても泣いてしまいます。泣きながら言うのがいやで我慢するのですが、どうしても我慢出来ず泣いてしまいます。
それが嫌で私は我慢してなにも言わない様にしています。
言いたいのにイラっときて泣いてしまう時どの様にしたらいいでしょう。言いたい事が言えず最近ずっとモヤモヤしています。そんな私に少しでもお力をください。お願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

我慢をするんじゃなく 正義を捨てる勇気を持とう

こんにちは。正義の味方ナットウマンに家族を皆殺しにされたニホンシュマンの最後の生き残り、お酒大好きニポンシュマンこと丹下覚元です。え?坊主が酒を飲むなよって?そんなこと言わんでください。日本酒造りの職人さんが悪者だとでもいうのでしょうか?
人はいつの間にかマイルールを作っているものです。それを無くしましょう。
あなたはマイルール・正義心が強いのでしょう。マイルール、自分帝国がありすぎるのです。
だからぶつかることが多いのだと思います。
一度、砂の城のように崩して再構築しましょう。
全部壊さなくてもいいです。ですが「正義」という言葉だけは除去しましょう。
正義っていい響きですが、危険思想につながります。
世界の侵略国や独裁政治家たちを見てください。自分だけが正義です。
日本の政治家だってそうです。日本が良くなるために、手を取り合ってもいいのに、貶しあってばっかりです。意見が違うから?いや、意見が違うより、日本が良くなることをしましょうよ。
…というように、みんなで世界をよくしましょう、イイものを提供しましょうよ、という姿勢がいい政治家、イイ上司、イイ店員、いいバイトさんです。
あなたも、争う、感情的になる、怒るということは同じレベルです。
ところで、私たちニホンシュマン一族にとっては、日本酒作る時納豆って食べちゃいけなんですよ。
納豆菌が入り込んでしまうと別物になってしまうのです。
先日、私の知人のヘドロちゃんが納豆菌に侵略されたという哀しい話を聞きました。納豆菌は、池をキレイにする時などは役に立ちます。ですが、人間の目からすると、池がキレイになったって言いますけど、池のヘドロにだって人権はあるんです!!(人権じゃないけど)
分りづらい喩えだったかもしれませんが、マイ意識がどこかにあり過ぎるかもしれませんどすえ。
たとえばチベットが中国によって侵略されて沢山の人が殺されてしまいましたが、世界中のあちこちがこのまま中国になってイイと思いますか?世界中が納豆菌だけになっていいでしょうか?そんな横暴な正義は許されませんよね。そうなのです、正義は危険思想なのです。
だから仏教では正義を唱えません。
誰もがあい和する心を説きます。
「自分自分した」心を捨ててください。
自分の正義心、自分のルールをなくす為の、ご参考になれば幸いです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

アドバイスありがとうございます。少し気持ちが楽になりました。
また明日から仕事頑張ります。
ありがとうございます。

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