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自分の性格が嫌いです!

回答数回答 1
有り難し有り難し 18

私は人の気持ちを汲んだり
優しさや思いやりに欠けているところがあり、友人、知人、大切な人を傷つけてしまう事も多いです。
相手の立場に立って考える事できず、
自分が話したい時に話して
安心できるまで、何度も同じ話、質問を繰り返してしまい、押しつけ、強要する話し方をして
人の話を最後まで聞くことが出来ず
いつも自分本位,,,

大切にしたい、良好な関係を築いていきたい、素直でありたい、愛嬌や思いやりある人になりたい、明るく、笑顔でいたいのに

毎回、正反対の事をして後から後悔して、その繰り返しです。
そんな自分が嫌いで変わりたいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

精確を変えるコツは反応直後にあり。

嫌なことがあった時に毎回ネガティブな反応をしてしまう。
(*´▽`*)そんなこと、あるあるですよね。🌷🌷🌷✨
(なんだこのテンション)
本当は違うのです。
坐禅して自分の心の反応を見つめてみます、あることがが分かるのです。
ドカン!と何か嫌なことが起こった時。
その瞬間を心の超スローカメラで眺めてみましょう。
まずは先日嫌なことがあった時の場面をREPLAYしてみましょう。
あなたがあの出来事に出会った瞬間から再生します。📹📺
👓
すると、おや…、もくもくとネガティブな心が生まれています。
さて、ここでこの嫌な出来事に注目してみましょう。
どうやら、この出来事は最初から嫌な出来事であったワケではありません。
「どかん!」と日常、世界の各地で起こっている一事実なのです。
今日も世界の各地でハトやカラスのフンを浴びた人がいます。
マスクを買いに行ったのに売り切れていて野菜をシコタマ買い込んできた人がいます。(私)
コロナで志村けんが死んでしまって切ない思いをしている人がいます。
それでも、その事実というものは初めは無色透明なのです。
そこに私ども人間が人間の主観で悪いものだと思いこんでしまう瞬間があるのです。あなたはまず、そこに目を向けてみるべきなのです。
すると、あの嫌な出来事は「私にとって」嫌なことだったと分かるようになります。実はそこに「私意識」が立ち上がっていたのです。
フェイスブックやツイッター、ライン、ゲームのようなアプリが起動するようにあなたの心の中で「わたしのつごう」というアプリが起動していたのです。
自我意識とも言えましょう。エゴとも言えましょう。自分中心な心と言ってもいいでしょう。
その意識が立ち上がっていることで自分目線になるのです。
人間は思考をする際に、このエゴ・自我をベースにすると、自分にとって都合の悪いことはすぐに腹を立てたり、感情的になります。ムキー!
思い通りにならないことでトサカに来るのです。コケー!🐔
坐禅はワタクシ・エゴ・自我という、無自覚感染のような、いつの間にか立ち上がっているエゴを立ち上がり以前の姿に導きます。
一度その心を会得してみると良いでしょう。
人生快適🌸咲く咲く🌸毎日がお花畑です。相手の気持ちもわかるようになります。Youtubeで安穏寺の法話会の様子がアップされてますので参考にしてみてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

そうですね、私にとって嫌なことでした!
誰も悪くない。
チャンネルを拝見して勉強させて頂きます。
ありがとうございました!

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