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東京23区か横浜周辺で・・・

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有り難し有り難し 16

坐禅会をやっているところをしりませんか?インターネットで検索するとかなりあるんですが、毎週土曜日 2時~4時ぐらいに始まるところが無いか?探してます。朝 晩は 親の面倒があり 家事があり平日は仕事してまして・・・なかなか通い続けられる場所がないんですよね。お金はあるので 参加費は気にしてないのですが(すごい高額なら話は別です)読経とかあったらもっとありがたいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

参禅はその指導者こそ大事

坐禅道場はそりゃ、いくらでもありましょうが大切なのはそこの指導者。
ご自分で確かめられのるが一番でしょうが、以下は信じようが信じまいが私からの注意点。
〇参禅、仏道修行とは、禅を学ぶのではない。お経を学ぶのでもない。
 この身心そのもの、自己を学ぶことが参禅。そういう姿勢で参禅、聞法、読経なさるべし。※多くの人は「禅」というものがあると思い、「禅」とかいうものを学ぼうとする。だから道はずれになる。
〇参禅とは坐禅という修行、禅の修行らしいこと、仏道修行らしいことをスル、ということではない。※この意味が理解できるものは僧であっても少ない。よく咀嚼されたし。
〇最初から、こういうことが禅の修行だろう、と決めてかかっている人は、自己満足しに来ている人が多い。坐禅とはこういうことである、ということを知らずにいきなり本人まかせで坐禅する、させ、アフターケアー、フォロー的な場がまるでないような坐禅会はアウト。※だったら家でスワりゃいい話。
〇坐禅は考え事をするのでもない。我慢して坐りぬくことでもない。無心、無念無想になる事でもない。※何故かって、そうなったからってどうなのか?その後何すりゃいいの?ってなるでしょう。
よって
〇悟りを得た指導者の元で参禅しなければまったくもって自己満足。まるで意味がない。
導師=サトリへ導ける力量のある指導者という意味においての導き手=正師(しょうし)がいない禅会は単なる週末プチ出家♡
〇気をつけろ!本質を見極められよ!衣取ったらたんなるオッサン、も居るって。
〇その指導者と問答、質疑応答ができる環境が設けられている坐禅会でなければ行くべきではない。※主催者が質問されては困るからだ。
〇知識をためんとする姿勢は参禅しているつもりでも実質は学問、哲学。自分を心底救う手立てにはならない。
有名な坊さんであるとかないとか関係ない。そこの指導者がちゃんと悟っているティーチャーであるかどうか。それだけです。
勿論そうでない人からでも学ぶことは多いにある。それでも悟っていない和尚さんのところで修行しても本当のところは役には立たん、と私は口すっぱくハッキリ断言します。
tosenin.e-tera.jp/inouekandourousi/inouekandourousi.html

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

最初から、こういうことが禅の修行だろう、と決めてかかっている人は、自己満足しに来ている人が多い。

言われてみるとそうですね。お寺という雰囲気が好きで 少し 体験してみたいな って思ったのですが、中途半端な気持ちでするのも 失礼でしたね。

やるんだったら とことんやりたい。

よろしくお願いします。

「坐禅について」問答一覧

アドラー心理学と禅

法律事務所を経営しています。 顧客も案件もたくさんあるのですが、儲からず忙しいばかり。儲からない案件もお金を取らないで受けてしまうからです。 結果、大量の仕事に追われ、催促の電話に怯え、無力感や罪悪感で死にたくなる毎日です。月に1~2回、本当に自殺しそうになって思いとどまるようなことが1年くらい続いててかなりツラいです。 そんなときに、ベストセラーになった「嫌われる勇気」(アドラー心理学の本)を読みました。そのなかに、 「自分がした善行に相手の配慮を期待するのは筋違い」 「受けた善行に返報しないことに罪悪感を覚えるのも筋違い」 「助けを求められてそれに応えないことに、罪悪感を覚えるのも筋違い」 「自分が何をすべきかは「自分の課題」であり、それを相手がどう感じてどう対応するかは「相手の課題」だから」 「自分の課題と相手の課題を混同してはいけない。相手の課題を勝手に自分の課題にするから苦しくなる」 というようなことが書かれてました。 自分は誰かの役に立つことは好きなのですが、そのことでお金を請求するのが苦手です。一方で、役に立つことをしてるのに相手から配慮して貰えないと苛立ったりします。また、何かを頼まれて断ることに罪悪感を覚えます。断ったら「嫌なヤツ」と思われるかもしれないという恐怖もあります。 アドラーの指摘するように、自分の課題と相手の課題を切り分け、「お金を請求して、支払うかどうかは相手の課題だから、気にせず請求すればいい」「相手の役に立つことをしても、それにどう応じるかは相手の課題だから、相手の配慮を期待するほうがおかしい」「頼まれ事を断ったとして、それをどう感じるかは相手の課題だから、どう思われようと気にすることはない」と考えれば確かに楽なんですが、お坊さん的にはこうした考え方ってどうなんでしょうか? そう考えると楽なのは分かるんですが、なんとなく腑に落ちないのです。 以前聞きかじった禅の思想(教え?)で、「一時の結果や他人の評価など気にしても仕方ない(どうせ本来無一物/諸行無常)」「自分は自分。他人は他人(主人公)」みたいなのがあった気がします。うろ覚えですが。 禅にも似ている考え方があるんじゃないかと思い質問してみました。 実は人に相談するのもとても苦手です。 ご回答頂ければとても嬉しいです。

有り難し有り難し 33
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ