友達のペットを殺したかもしれない。
当時、私は小学校中学年でした。
友達の家はペットにフェレットを飼っていて
みんなでよく遊んでました。
ある日 私がゴム製の星の形をしたおもちゃ(フェレットではなく友達のもの)をフェレットにひきつけて遊んでいたら 角の先っぽ部分1cmほど食べてしまいました。
私はびっくりして遊ぶのをやめました。
おもちゃを欠けさせてしまった事で
嫌われるのが怖くてその事を全て友達に黙っていました。
それから期間は曖昧ですが しばらくしてフェレットは亡くなりました。
死因は聞いていません。
あれから10年も経った最近になって初めて
フェレットの誤飲が命に関わる事だと知りました。
今更になって私が殺してしまった可能性が高いんじゃないかと疑っています。
もし誤飲なら想像を絶するほど苦しく痛かっただろうし
むごい事をしてしまったと申し訳なくやりきれない気持ちでいっぱいになります。
我が身可愛さに黙っていなければ
助かってたんじゃないかと考えてしまいます。
そうすると眠れなくなります。
罪の意識で潰れそうでとても苦しく
私は生きている価値がない人間に思えてきます。
嬉しい事があっても幸せになるべきではないないと当時がよぎり 心から喜べません。
故意ではなくても人の家のペットは殺してしまったかもしれないくせに
自分の家のペットは大事にしているのも最低だと思います。
疎遠になっているので友達の連絡先は知りませんが まだ地元にいるはずなので頑張れば連絡を取れる状況です。
死の真相かもしれない事を黙っているのは
フェレットを2度殺していることになりますか?
一生恨まれる覚悟で打ち明け、もしかしたら自分の誤飲のせいで亡くなってしまったかもしれないと謝罪するべきですか?
それとも墓場までこの話は持ってくべきですか?
あと、私がフェレットにしてあげられる償いはなんでしょうか?
罪悪感に潰されそうで
心から笑いたいけど笑ったら
友達とフェレットの事が頭に浮かび
苦しくなります。
殺したくせに楽しく生きたいと思うのは傲慢で最低だと感じ、
生きている心地がしません。
とりかえしがつかないことをしてしまった自分が憎いです。
フェレットと友達家族に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
長い文を読んでくださってありがとうございました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
まずは知ることです。
ご質問拝読いたしました。
ご心労のことと思います。
愚僧はもちろん獣医師では、
ありません。
単なる動物好きですが、
ペレットは好奇心が、
非常に旺盛で、
いじったりかじったりします。
誤飲した場合、
小さい子なので、
4、5時間で
消化されるみたいです。
もしも誤飲が原因なら、
おそらくその晩には、
異変を起こして、
病院に行ったと思います。
また、
そうしたものの蓄積があれば、
可能性があるかも、
しれませんが、現実には、
1センチの異物一つで、
死に至るとは考えにくいです。
まずは、
しっかりとフェレットについて、
どういう動物なのか、
知ることです。
知ればまずは、
この誤飲がもとで、
亡くなることは、
まず考えられない。
大丈夫だと、
判断ができます。
あなたは、
かなり真面目で几帳面な性格、
そして、大変お優しい方だと、
思いますよ。
悩みや苦しみは、
御自身が作りだすものです。
その10年経っても消えない思い、
これはあなた自身が
作り出しているのです。
愚僧からすると、
あなたは気持ちが優しく、
思いやりに溢れているので、
きっといい家庭を築いて、
お幸せになれると、
見えています。
見方一つで人生変わりますよ。
あなたのお幸せを、
祈っています。
取り返しのつかないことは、つかないのです。
こんにちは。私も実は、小学校の時にハムスターを飼っていて、あろうことか「餌のやり忘れ」で餓死させてしまいました。
その日のことは今でも覚えていますし、お寺のお堂には「ハムスターの霊位」という位牌まで作ってあります。
そんな経験のある私から言うのはおこがましいかも知れませんが、
①もし見つかるなら、お友達を探し出して謝りましょう。
②もし見つからなかったら、お家の仏壇に向かって「◯◯ちゃんのフェレット、もしかしたら私のせいで、ごめんなさいね」と謝りましょう。日数は七七日、つまり49日間です。
③もしお仏壇がないのならば、日の沈む西に向かって、「◯◯ちゃんのフェレット、もしかしたか私のせいで、ごめんなさいね」と謝りましょう。
④西の方、というのは「極楽世界」がある方角で、「亡くなったあとは、みんなそこへ行く」と考えられています。「南無阿弥陀仏」と、その極楽の主さんに呼びかけると良いでしょう。
さて、「取り返しのつかないこと」があるというのは、私やあなたのように「やってしまった!(かも)」という強烈な体験があってこそ分かることです。
しかし考えてみれば、そもそも「取り返しのつくこと」自体が殆ど無い、ということは分かりますか?「取り返しがつく」のは、せいぜい勉強とか仕事の一部、程度です。「今朝、家族におはようと言わなかった」のは、明日「昨日のぶん。おはよう」と言っても「取り返しがつく」ではないように思います。
それらから分かるのは、「どんな一日も、掛け替えのない一日なんだ」ということです。これ実は、「上手くいく事もあるし、思い通りにいかない事もある」、その両方を受け入れられるような人になるためのステップです。
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
ありがたく嬉しい気持ちと死にたい気持ちがいったりきたりしていて
自分の中で整理がつきません。
回答がためにならなかったなどでらありません。
この出来事と向き合っていこうと思います。
ありがとうございました。