信仰ってなんだろう
私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。
私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。
私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。
宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。
こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。
私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。
大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「是心作仏 是心是仏」をどういただくか。
再びご縁をいただきました。とても大事な疑問です。
新型コロナウイルスや自然の驚異など、私たちに都合の悪い現実によって
>我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。
とのこと。そうならば歓迎なのですが、都合の悪い現実に耐え切れず、かえって都合の良い神仏の存在を思い込みによって信じようとするような弱さをも人間は持ち合わせているのではないかとも感じます。外の現実と自分の思いの差を「信仰」で埋め合わせようとしてしまうのですね。
では、そのような「信仰」ではない信仰とは、つまりは仏教の信仰とは何でしょうか。それは智慧によって事実を事実として受け止める勇気ではないでしょうか。
都合の良い神仏への信仰というのは実は疑念の裏返しの形です。事実は信じる必要がありません。信じようと信じまいと事実は事実であるからです。
信じないといけないようなものは、実は疑っているからこそ信じて確固たるものにしようとするわけです。
では仏とは何か。
>人間の心の内にある概念に過ぎず
という程度のものなのか。ここが私もあなたと同じくずっと考えている疑問です。言ってしまえば私にもわかりません。でも同時に、私に「わかる」範囲のものが私を救うはずがないとも思うのです。私は私自身に迷い苦しんでいるのですから、救いは私を超えた所からでしか成り立たないからです。
形而下の仏といっていいか分かりませんが、歴史上存在したのは釈尊という一人の人間です。でももう釈尊はいない。では仏はいないのか?
『仏説観無量寿経』には
「諸仏如来はこれ法界の身なり。一切衆生の心相の中に入りたまえり。(中略)この心、作仏す。この心これ仏なり。」
とあります。パッと読んだだけではあなたの言う「人間の心の内にある概念に過ぎず」と同意であるかのようにも読み取れます。
でも私はそうではないと思うのです。」「私の心を超えたものが私の心にはたらきかける」のが仏であり、「私の心の範囲内のみにおさまるものではない」というのが私の理解です。
しかしこれは「心」というものを実体的にとらえた理解なのではないかと自分自身でまた疑問に感じてきています。
もう字数上書けませんが、浄土真宗の「南無阿弥陀仏」が私の心の中から出てきたものでないことは確かです。私は誰かによって私まで届けてもらったからこそお念仏申せるからです。
祈り 『沈黙』よみましたよ
宗教の歴史は古く、非常に重層的なものとなっています。
ミラーボールといっていいほどの多くの面を持ち、
無限のマトリョーシカといっていいほどの、奥深さを呈しています。
方便は人が多様だから様々。
お釈迦様は私のいうことでも鵜呑みにせず、自分で考えろとおっしゃったと聞いていますよ。
私はあなたのお考えに共感します。
あなたのおっしゃるような「ノイズ」もいっぱいのっていますね。
あなたは信じられているとのことなので、直接の回答にはなりませんが、
付け加えて、現代人の盲点になりがちなことを指摘しておきたいなと思います。
「信じることは免疫機能を上げる。」
信じるものは救われるという点ですね。
何を信じるかという問題もありますが、信じられている「状態」というのは疑ってるよりも、心身ともに楽なんですね。
現代の特徴は、左脳で分析し疑って、生命力を消費する所。
では、現代人がどうやって神仏を信じるか?
そこが問題ですよね
現代に限らず、大昔から知的なひとたちは、簡単には信じられない
ある意味「業の深い」人たちだったのではないでしょうか?
そんな人たちは、哲学的な分析をしたり、
心の中の概念を「有効利用」する仏を念じるという方法を編み出しました。
こころの認識の仕組みを「ほとけ」と呼ぶ人たちもあらわれました。
・・・私たちはなぜこの世界を「知れるようにできているのでしょうか?」
その神秘の仕組みを知恵と慈悲といいました。
知れることは知恵であり、慈悲だということです。
最後に。
疑うのも信じるのも連綿と続いてきた命を救いたい、つなげたいという活動と祈りです。
自分の、人の命を守りたいとき、人というものはどのくらい強いのでしょうか?
私たちは完全なのでしょうか?
知力、体力、いのち。
あらためてふりかえると儚さにふるえます。
知恵と慈悲、それに「力」。
平和な中で思考することに慣れてしまった現代の私たちが、忘れがちなこと。
すべての根本には生命力があって、それが柱となって支えてる。
力が増すような知恵と慈悲、人を元気にする知恵と慈悲
私は本物の祈りは元気になるはずだとおもっています。
たしかに自分たちの都合よい神仏かも知れないけど、祈る。
現実の厳しさに、祈るしかないという状況がずっとあったのだと思います。
話すに値するテーマですよね。
奇跡(超常現象)ではなく智慧によって救われる
こんにちは。
私も遠藤周作の「沈黙」を読んだ事があります。信仰とは何か、について考えさせられる小説です。
江戸幕府が鎖国をしキリスト教を禁止した理由は、列強国がキリスト教を利用して日本を植民地にするのではないかと考えていたからです。また島原の乱(天草の一揆)などを通してキリスト教に対し危機感を感じていたのだと思います。列強から日本を守るために禁教していたのです。
仏教において信仰というのは、拝むことで何か特別な力が宿ったり、また困ったときに神様的な何かが不思議な力で助けてくれたり、そういうものではないのです。困ったときに、自分がどうするかの問題なのです。生き方なのです。コロナを例に取れば、「神様仏様お願いだからコロナを制して」とお願いするのではなく(もちろん祈る気持ちも大切ですが)、コロナが蔓延している今、自分はどのような行動を取るべきかについて、その考え方を示すのが仏教なのです。奇跡(超常現象)ではなくお釈迦さまの智慧によって救われるのです。
あなたも正しく仏教を学び、今この瞬間この場所であなた自身がどう行動するのかよくよく考えて日々を送りましょう。
質問者からのお礼
沢山のご回答誠に有難うございます。
大変不躾ながら白状いたしますと、この質問文は「お坊さんというのは、仏に身も心も隷属しているのではないのか?」という強烈な先入観を元に書いたもので、送信後に「仏道に真摯に携わっている方に送るようなものではないのでは?」と呵責してしまったこともあったので、皆様の仏教ならびに宗教に対する回答を頂いたこと誠に感謝しております。
回答を拝見する限り、皆様の共通点として、仏様の教えは色眼鏡ではなく、むしろ現実世界を正しく認識し、それをふまえた上でどう向き合うかを考える杖のような存在と考えていることが挙げられるのではないかとお見受け致しました。
今、大いなる脅威が世界を這いずり回る中、人の心や営みが蝕まれている危機的状況ですが、皆様がお疲れの出ないよう過ごされることを心より願っております。
重ねてお礼申し上げます。