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信仰ってなんだろう

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有り難し有り難し 34

私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。
私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。
私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。
宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。

こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。

私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。

大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「是心作仏 是心是仏」をどういただくか。

再びご縁をいただきました。とても大事な疑問です。

新型コロナウイルスや自然の驚異など、私たちに都合の悪い現実によって

>我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。

とのこと。そうならば歓迎なのですが、都合の悪い現実に耐え切れず、かえって都合の良い神仏の存在を思い込みによって信じようとするような弱さをも人間は持ち合わせているのではないかとも感じます。外の現実と自分の思いの差を「信仰」で埋め合わせようとしてしまうのですね。

では、そのような「信仰」ではない信仰とは、つまりは仏教の信仰とは何でしょうか。それは智慧によって事実を事実として受け止める勇気ではないでしょうか。

都合の良い神仏への信仰というのは実は疑念の裏返しの形です。事実は信じる必要がありません。信じようと信じまいと事実は事実であるからです。
信じないといけないようなものは、実は疑っているからこそ信じて確固たるものにしようとするわけです。

では仏とは何か。

>人間の心の内にある概念に過ぎず

という程度のものなのか。ここが私もあなたと同じくずっと考えている疑問です。言ってしまえば私にもわかりません。でも同時に、私に「わかる」範囲のものが私を救うはずがないとも思うのです。私は私自身に迷い苦しんでいるのですから、救いは私を超えた所からでしか成り立たないからです。

形而下の仏といっていいか分かりませんが、歴史上存在したのは釈尊という一人の人間です。でももう釈尊はいない。では仏はいないのか?

『仏説観無量寿経』には

「諸仏如来はこれ法界の身なり。一切衆生の心相の中に入りたまえり。(中略)この心、作仏す。この心これ仏なり。」

とあります。パッと読んだだけではあなたの言う「人間の心の内にある概念に過ぎず」と同意であるかのようにも読み取れます。

でも私はそうではないと思うのです。」「私の心を超えたものが私の心にはたらきかける」のが仏であり、「私の心の範囲内のみにおさまるものではない」というのが私の理解です。

しかしこれは「心」というものを実体的にとらえた理解なのではないかと自分自身でまた疑問に感じてきています。

もう字数上書けませんが、浄土真宗の「南無阿弥陀仏」が私の心の中から出てきたものでないことは確かです。私は誰かによって私まで届けてもらったからこそお念仏申せるからです。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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祈り 『沈黙』よみましたよ

宗教の歴史は古く、非常に重層的なものとなっています。
ミラーボールといっていいほどの多くの面を持ち、
無限のマトリョーシカといっていいほどの、奥深さを呈しています。

方便は人が多様だから様々。

お釈迦様は私のいうことでも鵜呑みにせず、自分で考えろとおっしゃったと聞いていますよ。

私はあなたのお考えに共感します。
あなたのおっしゃるような「ノイズ」もいっぱいのっていますね。

あなたは信じられているとのことなので、直接の回答にはなりませんが、
付け加えて、現代人の盲点になりがちなことを指摘しておきたいなと思います。

「信じることは免疫機能を上げる。」
信じるものは救われるという点ですね。

何を信じるかという問題もありますが、信じられている「状態」というのは疑ってるよりも、心身ともに楽なんですね。

現代の特徴は、左脳で分析し疑って、生命力を消費する所。

では、現代人がどうやって神仏を信じるか?
そこが問題ですよね

現代に限らず、大昔から知的なひとたちは、簡単には信じられない
ある意味「業の深い」人たちだったのではないでしょうか?

そんな人たちは、哲学的な分析をしたり、
心の中の概念を「有効利用」する仏を念じるという方法を編み出しました。

こころの認識の仕組みを「ほとけ」と呼ぶ人たちもあらわれました。

・・・私たちはなぜこの世界を「知れるようにできているのでしょうか?」

その神秘の仕組みを知恵と慈悲といいました。

知れることは知恵であり、慈悲だということです。

最後に。
疑うのも信じるのも連綿と続いてきた命を救いたい、つなげたいという活動と祈りです。

自分の、人の命を守りたいとき、人というものはどのくらい強いのでしょうか?
私たちは完全なのでしょうか?

知力、体力、いのち。
あらためてふりかえると儚さにふるえます。

知恵と慈悲、それに「力」。

平和な中で思考することに慣れてしまった現代の私たちが、忘れがちなこと。
すべての根本には生命力があって、それが柱となって支えてる。

力が増すような知恵と慈悲、人を元気にする知恵と慈悲
私は本物の祈りは元気になるはずだとおもっています。

たしかに自分たちの都合よい神仏かも知れないけど、祈る。
現実の厳しさに、祈るしかないという状況がずっとあったのだと思います。

話すに値するテーマですよね。

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有り難し
おきもち

人生も階段ばかりじゃしんどいです。 たまには踊り場で一緒に泣きません...
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奇跡(超常現象)ではなく智慧によって救われる

こんにちは。
 私も遠藤周作の「沈黙」を読んだ事があります。信仰とは何か、について考えさせられる小説です。

 江戸幕府が鎖国をしキリスト教を禁止した理由は、列強国がキリスト教を利用して日本を植民地にするのではないかと考えていたからです。また島原の乱(天草の一揆)などを通してキリスト教に対し危機感を感じていたのだと思います。列強から日本を守るために禁教していたのです。

 仏教において信仰というのは、拝むことで何か特別な力が宿ったり、また困ったときに神様的な何かが不思議な力で助けてくれたり、そういうものではないのです。困ったときに、自分がどうするかの問題なのです。生き方なのです。コロナを例に取れば、「神様仏様お願いだからコロナを制して」とお願いするのではなく(もちろん祈る気持ちも大切ですが)、コロナが蔓延している今、自分はどのような行動を取るべきかについて、その考え方を示すのが仏教なのです。奇跡(超常現象)ではなくお釈迦さまの智慧によって救われるのです。

 あなたも正しく仏教を学び、今この瞬間この場所であなた自身がどう行動するのかよくよく考えて日々を送りましょう。

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有り難し
おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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質問者からのお礼

沢山のご回答誠に有難うございます。
大変不躾ながら白状いたしますと、この質問文は「お坊さんというのは、仏に身も心も隷属しているのではないのか?」という強烈な先入観を元に書いたもので、送信後に「仏道に真摯に携わっている方に送るようなものではないのでは?」と呵責してしまったこともあったので、皆様の仏教ならびに宗教に対する回答を頂いたこと誠に感謝しております。
回答を拝見する限り、皆様の共通点として、仏様の教えは色眼鏡ではなく、むしろ現実世界を正しく認識し、それをふまえた上でどう向き合うかを考える杖のような存在と考えていることが挙げられるのではないかとお見受け致しました。
今、大いなる脅威が世界を這いずり回る中、人の心や営みが蝕まれている危機的状況ですが、皆様がお疲れの出ないよう過ごされることを心より願っております。
重ねてお礼申し上げます。

「宗教について」問答一覧

牧師、神父、イエスキリストが信じられない

仏教のサイトでキリストの話をするのは筋違いだと思いますが、お話しします。 イエスキリストを心の底から信じられないのです。 というか、私は私が所属したい教会がわかりません。 宗教ジプシーで、十数個の宗教を渡り歩いてきました。 でも、どこの神様も心から信じられないのです。というか、どこの教会も心から信じられません。 牧師にもそのことを話しました。 どこの教会が真理かと。 で、聖書を読んでいるかと牧師に問われて、新興宗教の教会に通っていることを打ち明けると、とても馬鹿にされました。 すごく悲しかったし、本気でキレてしまいました。 新興宗教というか、キリスト教の教会にも行かなく成りました。 なんだか、「クリスチャン」が信じられないのです。 もちろん私が知り合ってきた人には、良いクリスチャンもいます。でも、ネットでクリスチャンを自称している人は嫌いです。 ガンジーが「クリスチャンはキリストのように生活してねーじゃん」とツッコミを入れているように、私はクリスチャンが善人ばかりではないことを悟りました。 私はどうしたらいいんでしょう。 もう宗教が嫌になっています。 嫌というか、何かすごい心がモヤモヤします。 どうしたらあの嫌な牧師を赦せるのでしょう。汝の敵を許せと聖書にはあります。 でもどれだけ祈っても聖書を読んでも牧師を赦せないのです。 カウンセラーにも牧師を赦せないことを話しました。 でも、心理学や精神医学を使ってもあの牧師を赦すことができないと私は思ってしまいます。 カウンセラーに助けを求めましたが、正直あまり救われたと思えないのです。 どうすれば人を赦せますか。 お坊さんは、こいつ殺してやりたいと思う奴をどう赦すのですか?そもそも人を殺したいほど憎みますか? また、どうすれば、私は私が納得する教会というか、教えに出会えるでしょうか。

有り難し有り難し 11
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科学と宗教の棲み分け。仏教は科学否定?

 いつもお世話になっております。  ある日、仲良くなった女子神主さんと話していて、 「科学じゃ説明できないこともたくさんあるのよ」 「お医者さんも信用しきっちゃだめよ」 と言われました。  私はこの神主さんを怪しみ、あえて科学界隈の精神科の先生に、 神主さんからこう言われた、と伝え 「先生、科学で説明できないことって何だと思う?」 と尋ねてみました。  「たくさんあるじゃない。精神の現象なんて最たる例だよ」 と言われました。 「個々人の物事に対する捉え方とか、病気を治したいっていう 気持ちを起こさせたりとかは、科学が干渉できないってこと?」 と聞いたら、その通り、科学はあくまで目に見えるものを探求する 学問だと言われました。同時に、 「みんな、科学に期待しすぎ」 と。  精神科の先生のことは信頼しています。でも、科学のプロが 「科学に期待しすぎ」という考えなのはどうなの?とも思います。  以前こちらで、宗教心、仏教心とは何か、と質問したら、 「当たり前のことを分かるようになり、惑いをなくすこと」 とお答えいただきました。目を開けたら見える、おならは臭い、 というようなことだとご説明いただきました。  しかし、世の中の人は、 「どうしてこうなるの?どうすればいいの?怖い!」 とあらゆる事に惑います。  科学は、 「これはこうだからこうなるんだよ(当たり前の提示)。こうすれば 怖くないよ」 と人々に教えてくれます。  そして、素直にその事象を受け入れ、科学で明らかになった対応策を、 (例えば病気の治療)ありがたく実行させていただく。この謙虚さと やる気を起こさせるのが、宗教心だと思うのです。  こちらのお坊様も、 「仏教では、物事には必ず科学的原因があると説く」 「科学の発展なしに、現代社会はあり得ない」 とおっしゃいます。  時折、「科学が人を貧しくした!」と言っている宗教家を 見かけます。私は、こういう人は危険だと思うのですが。  ちなみに精神科の先生は、「僕を100%信用しないで」と言い、 神主さんも、医者を信じきるなと言いつつ「治らない人は、治そう としない人よ」と言います。  実は、長年の疑問です。私は、仏教は科学を否定する危険な宗教 だと思いたくないです。  

有り難し有り難し 14
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宗教について

お付き合いをして3年目、結婚を将来的に考えている20代後半の彼氏がいます。 結婚に向けて話を進めていく中で、 彼氏のお母様が熱心な新興宗教の信者なことが発覚しました。 彼氏は生まれた時から強制加入されているようですが熱心ではなく活動などにも参加していません。幽霊会員のような状態です。 彼氏はお母様の熱心さに嫌気がさして出身地から遠い所で暮らしているので日常生活で相手の親御さんが尋ねてきたり勧誘してきたりはあまりないと思っていますが… 私の父親が宗教関連断固拒否派です。 彼のことはずっと知らせていて近々食事だけでもするという話も出ていました。 私自身は信仰の自由はそれぞれ個人の自由かと思っているので勧誘されても入らないことは頻繁に伝えて固い意思でお断りすれば良いかなと思っていますが… 彼氏のお母様は私の入信を望んでいる様子だそうです。 (彼氏は宗教関連の話を一切私にしないで欲しいとお母様にきつく言ったようですが聞かない様子だそうです) 父親の反応が怖くてその件を言い出せない状態ですが、母親にも相談したところ「考えが甘すぎる」と言われてしまい結婚は愚か食事会すら猛反対されてしまいました。 私の結婚に対する考えは甘いのでしょうか?

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

なぜ祈る?祈りと願いの違いとは?

 いつもお世話になっております。  最近、気になっています。人は、なぜ祈るのでしょうか?  私は毎日、私がお世話になっている精神科医療スタッフさんが 安全にお勤めできるように、また、ストレスのため体を壊して しまった友人が早く回復しますようにと祈っています。  最後に自分のために祈ったのは、いつだったか。といった ところです。  あるお坊さんが、 「祈りとは誓い。『私は、○○をします。お見守りください』と、 神(仏)だのみではなく、自分が頑張るのを見守ってもらう」 とおっしゃっていました。私は、本来の仏教は神秘主義に傾倒した、 現実逃避の教えではないんだ。と安心しました。  しかし現実は、祈りや寄進が「自己愛の増幅」に繋がってしまって います。 「私はこれだけ○○様にお祈りしてるんだワ!」 「私はこんなに○○寺にご寄進したんだワ!」 と、ナルシストになってしまっているのです。  だから、信者間でのモラルハラスメントや、不倫や性暴力の 横行といった、これが宗教者かと思われる、アリエナイ事態 が各所で乱発しています。彼ら彼女らからは、本来宗教者が 持つべき「謙虚さ」が欠落しているのです。  現に私は、色々なお寺で色々な嫌な事をされています。  まともに祈って努力して頑張っているのは、医学生さんや 法学生さんくらいでしょう。  現に仏教系の大学は、偏差値が低い所ばかり。まあ、偏差値 というのは倍率のような側面もあり、志望者さんが多い学校ほど、 「きりがないから優秀な子から…」と高くなるようですが。  昔、陰謀論は宗教が担っていたそうです。陰謀論にはまる人々は、 「私は真実を知っている」「世界は間違っているが、私たちは正しい」 と驕ります。そして彼らは、科学が嫌いで怠け者です。  仏教では、 「あらゆる事象には科学的な原因があるから、呪いやたたりなど 怖くない」 と説いていると聞きますが、これを理解している人が、どれだけ いるでしょう?  もっと言いたい事はありますが、長くなるのでここまでに します。  私は祈りを捧げるとき、周りへの感謝、そして、頑張ります、 という気持ちを大切にしたいと思っています。そして、祈ったら、 次は現実的なアクション。間違っていますか?

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宗教心って?

 いつもお世話になっております。最近、「宗教心とは何か」と いう事を考えています。     私が考える宗教心は、 「目に見えないものに縋ったり拝んだりするだけじゃない。 人に慈しみと感謝を持って行動する心が主」 「どんなトラブルが起こっても、不確かな情報に惑わされたり うろたえて間違った行動をとらないよう、冷静に対処できる 心を養うための心の拠り所」 だと思います。それが、仏教含め、世界中の宗教の共通項だと 思っています。  なので私は、毎日科学関係の本や記事とにらめっこをしています。 不確かな健康情報に惑わされないようにするため、また、自分が どのような状態かを知るためです。これも仏道修行と思っています。  世界にはさまざまな宗教問題があります。仏教では、スリランカ での仏教僧団による、ムスリム弾圧。身近なものだと、霊感商法・ 開運商法。  アインシュタイン先生のお言葉に、 「宗教なき科学は不具、科学なき宗教は盲目」 というものがあります。アインシュタイン先生は、ルーズベルト 大統領に送った手紙をきっかけに原子爆弾を発明してしまった ことを、大変お悔やみになったそうです。  私が尊敬する科学の先生で、とても破天荒な方がいらっしゃい ます。その先生のお話を断片的に聞いていると、なんて滅茶苦茶な 人だ、と思う人もいるかもしれません。  しかし、よくよく聞いてみると、 「世の中にはびこる、人を惑わしめ苦しめる偽科学をなくしたい」 「自分の儲けは二の次にしても、みんなに本当の事を伝えたい」 というお心を、確かにお持ちと感じます。  また別の先生は、 「科学的にメンタルを強くする方法を教えてほしい」 という質問に、 「そのような方法は、存在しません」 とお答えになりました。  科学と宗教は棲み分けが大事だとも思います。  宗教は、「心の拠り所」。なので、宗教は科学に干渉しない。 科学も、宗教に依存しない。  私の捉え方は、間違っていますか?ちなみに、私の精神科の 先生のお友達のお医者さんは、プロテスタントのキリスト教徒 さんだそうです。先生に、 「ガンモドキみたいな事してませんよね」 と聞いたら、 「若いのによくその人知ってるね(笑)彼はそんなトンデモは しません」 と言っていました。

有り難し有り難し 5
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ