「神は乗り越えられる試練しか与えない」?
先日、親友が亡くなりました。
がんでした。
発見された時は既に全身に転移していて、
治療を行うことなく緩和ケアをしていました。
末期がんということで覚悟はしていましたが、
今まで当たり前のようにいた親友が
いなくなってしまったことはまだ受け入れられません。
でも、その傷はいつかは癒えると思います。
僕には僕の人生があるし、何より親友が、「僕のことは心の片すみにおいて、たまに『いいやつだったな』と思い出してほしい」といっていたからです。
ここで、本題に入ります。
僕はいつかこの試練を乗り越えられるのだと思います。
しかし、親友は亡くなりました。
親友にとって、がんで亡くなることは、「乗り越えられる試練」だったのでしょうか?
「神は乗り越えられる試練しか与えない」。
この言葉を信じることができなくなりました。
この言葉はどういう意味なのですか。
親友は、試練を乗り越えたのですか。
教えてください。お願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
大切な問いをいただきましたね
はじめまして、ご相談拝読しました。まずはご友人のご命終に謹んでお悔やみ申し上げます。
ご友人のおっしゃった通り、そしてあなたの感じる通り、お二人はこれからも心に感じるものをもってして離れることはありません。ご友人からいただいた問いを胸にこれからもともに歩んでまいりましょう。
さて、本題の「神は乗り越えられる試練しか与えない」についてですが、これはあなたがご友人からいただいた大きな大きな問いでありましょう。
どうかごまかさずにそのことを確かめていってください。性急な答えを出す必要もありません。このことを迷いながら問うていくことが大切なのです。
この本題については宗教観・世界観によって考え方は大きく異なるでしょう。ポイントは「神」ですね。もしも「世界の創造主」や「運命の支配者」としての「神」の存在を認めるならば、つまり私たちに起こる全ての出来事は「神」の差配だとするならば、その試練を乗り越えられなかった人は「神に見放された存在」ということになってしまいます。これは絶望です。
もちろんその「乗り越えられなかった」という事実も考え方で変換して無理やりこれは「これで一つの乗り越え方だったのだ」と捉えられないこともないかもしれません。しかしそれは結局事実へ観念を上塗りしているだけです。
仏教は違います。仏教では上記のような「神」の存在を認めません。私たちに起こる全ての出来事は因(直接的原因)と縁(間接的原因:環境・条件・対象)が和合して起こると考えます。
宇宙の始まりからその辺の石ころ一つのありようまで、そして私たちの生老病死する命ももちろん因縁和合の現象です。そこには神など何か一つの絶対者の意思というものは認められません。
神の存在を認めるならば全てのものの存在には与えられた意味があることになります。意味をもって神が創造するからです。
仏教ではそうした意味が先にあるのでなく、存在するに至る因縁がととのったという事実が先にあります。そこには与えられた意味などありません。
そしてだからこそ存在の事実から無限の意味が開けてくるのです。与えられた意味に絶望することもありません。事実ありきです。
ご友人の死の事実は私とあなたの事実でもあります。死は無くすという意味では乗り越えられません。伸ばしたところでも違うでしょう。
ではどうするか?それを求めるのが宗教的求道です。
死とは、新たなストーリーを歩み出す事です
初めまして、お早う御座います。
私には大きな十字架を2個、背負っています。大好きだった妻。その後、溢れ出し暴れ出そうとする心を必死に殺し縛り付け、過去に生きようとしていた私を、必死に見返りない愛情で本来の姿を取り戻したい!と幾度も告白する彼女に曖昧な返事しか出せなかった数日後、東日本大震災で空高く舞って行きました。
神も仏もない・・絶望以上の身を焦がし引き裂かれ、命を絶ち望んでいなかった蘇生をされて迷走する人生を歩んで・・あれだけ怨み憎んだ、仏弟子になりつぐないの為でもあり、同じ境遇に合われた方や悩み苦しむ方の為に、純粋にお救いさせて頂ける事が生きがいであり仕合せで日々、活動させて頂いています。
死とは終わりでなく、新たなストーリーに向けて歩み出す事です。私たちの身体には幾度もの困難を乗り越え、生き抜いて来た先人方の生きた証であり、託された事や想い願い、同じく未来に継ぐ役目やそれぞれに課題を与えられて、過去でもない未来でもない、二度とないこの瞬間を生きているのです。起きていない出来事を考えて思うから、それが不安や心配になるのです。
人生と言う冒険旅行は長さではありません。自分らしくどう描き生きたか?それが大切なのです。親友様から気づきを与えて頂けたのではないでしょうか?それは、試練でなく、仏さまが新たなストーリーを歩み出す為に、仏さまの御心の中で癒されて新たなストーリーを歩み出す為の準備をこれからして行くところなのです。魂は生前愛した人や家族の中に入って、共に命の時間を過ごします。想い出などに寄り添って共感して思い切り我慢せず泣きそして、お互いがもう大丈夫と思ったその時お互い新たなストーリーに歩み出すのです。苦しみ辛さ、しがらみ等全てから解き放たれ本来の姿になりあなたの中に共に今は居てくれています。一緒に過ごした日々は例え短くても大きな宝ではないですか?託された想い、出来なかった事を成就して上げて、徐々に笑顔を取り戻して欲しいと親友様も願っています。あなたの事を迷わずに先導してくれて、新たなストーリーを歩み出しても祈れば側に現れて微笑んで応えてくれます。姿形は見えないけれど一緒にいます。命の時間を焦らずに、自分自身を見失わないように大切に立ち止まりながら過ごしてください。必ず親友様と会えます。心切なくなった時ここに来て下さい。心から・・南無大師遍照金剛 合掌