自分が生きている意味がわかりません。
タイトルの通り私はよく自分が生きる意味について考えています。
日々の生活が楽しくないわけではありませんが、学生の頃から漠然と長生きするつもりもないし、30代あたりで死ねたらいいなと考えていました。
それを友達に話すと「早すぎじゃない!?」と言われました。逆になぜそんなに長く生きたいのか私には不思議で仕方なかったです。
というのも自分は死に対しての恐怖が周りの人たちよりも比較的に少ないのかなと思います。自分の体を傷つけるのにもなんの抵抗もありません。
嫌なことがあったり苦しいことがあっても『まぁ、いいやもうすぐ死ぬし』と思うと楽になれます。
ですがもし自分の家族が死んでしまったらと考えるととてつもない恐怖心に襲われます。
自分に対しての死にだけ不思議と恐怖がわきませんし、むしろ早く死にたいとも思っています。
何か感情が欠如しているのかとおもいました。
生きる意味について何か納得ができる答えがないかネットで検索をしても皆似たような答ばかりで納得できませんでした。
どうして人は生きていかなければならないのか。なぜ長く生きていくことが美徳とされているのか。早く死にたいと思うのはおかしいことなのでしょうか。
分かりにくい文で申し訳ございませんが、お返事お待ちしています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「生死」は人間の根本的な問い
ご相談拝読しました。
今お抱えの「生きる意味がわからない」「早く死にたい」というような思いは、三年前のご質問に書いていただいたような背景が起因としてあるのではないかと思います。
しかし、その「生きる意味」という問いはどんな境遇・環境で生まれようと全ての人に共通する根本課題でもあるのです。
なぜならば私たちは意味があって生まれて来たわけではないからです。
あなたは医者になって多くの命を救うため
あなたはスポ-ツ選手として感動を与えるため
などのような意味があらかじめ与えられて生まれてくるわけではありません。私たちはただ生まれるための因(直接原因)と縁(間接原因)がととのって生まれて来た。その因縁がととのうは奇跡的なものです。そうしてはからずも生まれたという事実が先にあるのであって、生まれ生きる意味は各人がその事実から見開いていかなければなりません。
>自分は死に対しての恐怖が周りの人たちよりも比較的に少ないのかなと思います。自分の体を傷つけるのにもなんの抵抗もありません。
たしかに今あなたはそのような縁の中におられるからこそそう思うのでしょう。でも縁が変われば思いも変わります。あなたは今そのように考えられる縁の中にあるだけなのです。
もしも重い病気や怪我にあえば激痛やもどかしさなどから死に恐怖するように変わるでしょう。愛する人ができたら死にたくないと思うかもしれません。あるいは車が突然突っ込んできたらさっと身をかわそうとするでしょう。
そのように「私はこういう人間だ」という「思い」は縁によって変わっていくものです。
でも今の「思い」をいたずらに否定する必要もありません。今そう思うということは、自分はそのように思わされる縁の中にいるということです。あなたの思いはあなたの力だけで起こすものでなく、様々な縁の中で起こるものなのですから。
さて、生きる意味は仕事や肩書や家族や趣味などあらゆる世俗的なもので一時的に見出すことはできるかもしれません。しかしそれらは全て死によって置いていかなければならないものです。
死の解決こそが宗教の命題です。肉体的な死は避けられませんし、死について考え方でどうにしようとするのも付け焼刃にすぎません。ならどうするか…それを問うて証していくのが宗教的求道です。
というわけで一緒に仏教やりませんか?仏教にあなたを学びませんか?