学習性無力感に陥ったお坊さんの心情は?
学習性無力感に陥っているベテラン(若手も?)僧侶をよくお見かけします。そして、それは無理もないと感じています。現場の本音を、差支えない範囲でお聞きしたく思います。
法話で何を話しても響かないし、葬儀や法事の際も、飾りとしてしか求められてない本音を感じるし、一見したところ支持してくれている方も、実は事なかれ主義の惰性だったりで、、。傍から見ていても気づくので、いたたまれない時がややあります。そんな現実の中、気力を振り絞って活動しているお坊さんをよくお見かけします。私にはそう見えますし、時折ボヤくお坊さんが実際におります。責めるつもりは微塵もありません。
ここで本音を語るのは難しいとは存じますが、虚しくなることはないのでしょうか?また、なぜこんな状況が長年続いてしまったのか?今後はどうする方針か?
考えをお聞かせください。
宗教家の宿命なのかもしれませんし、開き直って腐敗していく方も多いようなので、、そんなマジメなお坊さんにこそ、もっと暴れまわってもらいたいです。
仏教に色々と疑問があります。 今後の社会における仏教の役割ってなんだろうか?仏教の本質は不変でも、表現の仕方はどう変化していいはずです。ならば何を目指すべきだろうか?などと考えています。 硬めのQもやわらかめのQも、マジメに質問させて頂きます。
他人の気持がわかりません。 いくら頑張っても、互いに1%位しか理解しえあないのが人間なような。 だから、もっと様々な視点を学びたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
説く側と聞く側
こんにちは。
前回も回答させていただきました。
御縁がありますね。
前回に引き続き、舌鋒鋭いご質問です。
ただ、お坊さんの側が「開き直って腐敗していく方も多い」と嘆かれながらも、敢えて関わろうとされているところに興味深さを感じます。
私は、他者がどうこうではなく、自分の問題においてお話します。
「法話で何を話しても響かないし、葬儀や法事の際も、飾りとしてしか求められてない」とのこと。現実的にこれは檀家(門徒)さん側の思いとしてあると思います。私もこれは駆け出しの頃から感じていました。しかし、それから自分でどう話せば伝わるのかを試行錯誤しました。
浄土真宗本願寺派においては、法話をどう伝えるかをとてもよく研究します。その研修と選考の数段階を経て、以前本願寺にて法話を担当する職員に採用していただきました。この業務の中では、初めての人に5分で法話するなどがあり、同僚とも意見を交わしながら高めていきました。手前味噌のような言い方になるかもしれませんが、こういった頑張る宗派の動き、お坊さんが居ることも知っておいていただきたいです。
また、あなたには何も「響かない」としても、響いている人がいることも付け加えます。「こんな状況が長年続いてしまった」とありますが、法話を聞くことがとても好きという人もいらっしゃいます。これは、大都市圏では感じにくいかもしれませんが、地方ほどこの思いが強いと感じます。
響く響かないの問題は、響かせている方の問題であることは間違いないですが、受け止める側の問題もあるはずです。
もし、受け止める側が煩悩の自分を全く肯定した上で、仏教を聞いているとするならば、それは自分教の教祖の立場から仏教を眺めている可能性があります。それは、最近では無宗教とは言いつつも、自分という拠り所で他の宗教を判断しているという危うさも同時に持つものだと思います。そういった意識を、「消費者マインド」と前ご門主は言われていました。自分がお客さんで、神様だという意識です。
あなたも、この受け止め側の問題があることも、お考えのことと思います。
いぜれにせよ、現況の問題は発信の立場と受信の立場が折り重なるようにして発生しています。これを改善できるように、建設的なやり取りが出来ると良いなと思っております。
ご参考まで
一回りしましたね。
こんにちは。
暖かくもきびしいお言葉ありがとうございます。
僧侶としては「そんなことない」といいたい部分もありますが
社会ニーズとしては「全然物足りない」と思われても致し方ないです。
学習性無力感。。
的確な言葉だと思います。
明確な目標設定がある成長社会ではなかったものですが
成熟社会としてある程度満たされ、生きていける仕組みが整ってしまうと目標もたなくても生活できる。
でも、そこから落ちこぼれることへの不安は少なくないです。
ご質問は学習性無力感に陥った僧侶の心情でしたね。
察するに、僧侶であろうが、虐待事例であろうが、心情はあまり変わらないと思います。
ただ、無力感に陥った僧侶から引き継いだ現場の後始末は、ぶっちゃけ大変です。お陰様で、私は無力感に浸る暇はないです。
このhasunohaも、ガチですよ。
ちょっとのお経や響かない法話では満たされない(かもしれない)、それでも仏教に期待をもってくださる方々からの質問が集まる場です。
コロナウイルスの不安で質問制限かかって、まだまだたりない。
学習性無力感に浸っている暇はないです。
今後ともハスノハへのご指導ご支援よろしくお願いいたします。
追伸、仏教への表現はたしかに変えています。
いきなり読経・いきなり葬儀ではなく、道理と筋道を話したり、悲しみの深い場、卒業式の主賓は途中退席しないように人生の卒業式での導師を依頼されたならそれにふさわしい関わり方の提案であったりしてます。
学習性無力感という切り口でのケアは教育現場でも急務だと思っています。
休校明けの生徒ケアと教員へのサポートの切り口になる重要なキーワードだと思っています。
またよろしくお願いいたします。
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お返事とおきもちありがとうございます。
私も47なので還暦まで責任持てるのは13回忌までかなとか、遠い未来までの責任は持てませんが精進します。
学校教育みたいに講義型で仏「教」を聞いたほうが安心な人もいます。
一方で生活の中で知恵と慈悲がどう働くかという実践の中から練りあがった仏「法」を実感する方が信仰しやすい人もいるかと思います。
私が師事する宗祖は山から下りて、お堂の外、ストリートで教えを説いた方なので、いまの路線は続けると思います。
衣食住に困らないから。
ある程度のお檀家数があるお寺なら
御葬式・御法事をお勤めするだけで
充分な収入が得られます。
頑張っても手を抜いても
お檀家さんが増えり減ったりすることは
ほぼありません。
それに慣れてしまって
日々のルーティンをこなすだけになっています。
それを見透かされて
近年葬式仏教と卑下されるようになりました。
でもそれじゃいけないと
立ち上がるお坊さんが増えてきたのも確かです。
こういう状況だからこそ
危機感をいだくお坊さんがもっと増えるだろうと
私は期待しています。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございました。
受け、攻め、中立、さまざまなお答えで嬉しいです。
決して批判をしたいわけではないのですが、やはり何かが決定的にズレている、、と長年感じてきました。
お坊さんの視点だとレベルが高すぎるというか、需要と供給があってないというか、、。お坊さんが頑張れ頑張るほど、周囲がおいてけぼりになってきたような、、。ハスノハを眺めていても、99%の人は信仰以前のものを求めているような、、。それが学習性無力感の遠因だったような。
モヤモヤしたまま、率直に書くのをお許し下さい。
今後ともよろしくお願い致します。