死ぬのが怖くないです。
私は今年の3月で大学を卒業し、新社会人になりました。
ですが、新型コロナの影響で仕事もまだ始まっていません。
学生時代は進学、卒業、就職という目標があり、それが私の生きる意味でした。
しかし、学生生活を終えてしまった現在では、特に目標もなく、正直、いつ死んでもいいと思っています。
恋人も23年間出来たことがないし、恋人も欲しいとは思いません。
また、浅い付き合いの友人ばかりで、SNS中心の社会にも疲れています。
行きたかった国や場所も学生時代に行きました。
将来やってみたいことはありますが、金銭的に挑戦が難しいし、そもそもあと70,80年も生きたいとは思えません。
私はこれから何のために、誰のために、生きればいいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
大切な継がれた希望ある命をあなたらしく描いてください。
初めまして、今日は。
私は順風満帆だった日々。ある日突然、全てが崩れ絶望と嗚咽を噛みしめ必死に声を殺して、溢れ出し暴れ出そうとする心を必死に、必死に縛り付け、必死に僅かに繋がるそれを切れないように生きていた事がありました。生きようと思って見たり、呆れるほどの苦しさや辛さに必死に耐えてましたが、それらの重圧に耐え切れず命を絶ちました。発見され、頼んでもいない蘇生をされて彼岸と此岸(あの世とこの世)をさまよい此岸に引き戻されました。神も仏もないと絶句するほどの辛い出来事が幾度も幾度も訪れました。
この出来事があり一度は死んだ身。死ぬことが全く怖くないもう一人の自分がとても怖い時が未だにあります。過去でもない、訪れていない未来の出来事をふと・・思うから不安や心配になるの。その未来でもない、今この二度とないこの瞬間をあなたらしく生きて。この言葉は、震災で失った彼女が残し私をこの世に引き戻してくれた言葉です。
人生も運命も自分自身も、いくらでも変えられリスタートが出来ます。年齢は関係ありません。40歳を過ぎて、一般のサラリーマンから出家をしてお坊さんになり無名な自宅の一室をお寺とし、無名なお坊さんとなり、立派な飾りも、壇も、素敵な衣もなく無一文状態ですが、同じような境遇の方々や心悩み苦しんでいる方々をお救いさせて頂ける事、こんな私でも必要としてくれる方の為に抜苦与楽をさせて頂ける事がとても仕合せに過ごしています。
夢も希望も捨てない限り逃げません。何歳でも夢は叶えられます。宝くじの何十倍以上の奇跡の人生。せっかく比較的に恵まれた国に生まれたのです。不平や不満を言ってしかめっ面をせずありがとうを徐々に増やし、あなただけしかない良さと素敵な笑顔を輝かせて見ませんか?チャンスはいつ来るかわかりません。そのチャンスをいつでも掴めるよう逃さず掴んでください。何千年と言う時に困難を乗り越えて来た先人方の生き抜いた証が私たちです。私たちにもどんな事でも乗り越えられる力があります。継がれた命やそれぞれに与えられた課題があるのです。そのために生きているのです。大切な心や自分自身を見失わないように。惑わされたりせずにあなたらしく人生と言う冒険旅行を仕合せに歩めますように。お祈り致しています。
合掌
我々は生きるとは何かそもそも知っているのでしょうか?
人間という生き物は、意味というものに囚われます。しかし、それによってまた苦しむものでもあります。犬や猫は、何のために生きるなんて考えません。ただ与えられた命を黙々と生き続けます。
この生きる意味に囚われるという現象は、近代以降に始まったとも言われますね。比較的新しい悩みと言います。
「私はこれから何のために、誰のために、生きればいいのでしょうか。」この問いは私も分かりません。一人一人の自由では?分からないからこそ人生は残酷で、たった一つの意味とか、そういうものはないのではないでしょうか?この問いに安易に答えようとすれば非常に危険な新興宗教のようになってしまいます。
あなたの質問の根底に、深い苦悩があるような気がします。生きているだけでも疲れます。実は死なずに生き続けていることって、当たり前ではなくて大した事だなと感じています。あなたは、いつ死んでもいいという事を言われますが、こうやって質問してこられたという事は、あなたが頭で考えるよりも深い願いがあるんではないですか?このまま死にたくないとどこかで願っているからメールしてこられたのではないですか?
人間には深いものに出会いたいという深い願いがあります。あなたは、まだ出会っていないのではないでしょうか?まだ出会ってないけど、「これで生きた」と言えるような深いものに出会いたいのではないでしょうか。(文学や芸術、自然かもしれません。)
私自身もそうでした、なぜ生きるのか分からず、深いと思えるようなものに出会いたくて仏教を聞き始めて、何人か本物と言えるような先生や教えに出会って、これはまだ聞かんならんと思って生きつづけています。出会いが私を歩ませてきました。
生きる意味と言いますが、そもそも私達は生きるとは何か、十分に知っているのでしょうか?知ったつもりになっているだけではないでしょうか?今まで意味に縛られていたのであれば、一回意味から離れて、誰からの目や常識から離れて、深いものに出会っていくというか、そういう体験をするためにしばらく生きていってみてはどうでしょうか?SNSなんか無視してもいいじゃないですか。人生の深みというか、生きること自体を探求するそれをする時間をもってみてはと。そんな風に思いました。
「答え」はないけれども
生きる意味について深い問いを抱えているのですね。
その問いはとても大切なものなので大事にしてください。
私たちが生きていくにあたり、「誰かのため」や「何かのため」というものが見つかることはとても素敵なことです。
しかし究極的に言えば、その「誰か」や「何か」もやがて死や変化によって喪失されてしまうものです。さらに言えば、その「誰か」や「何か」を生きる意味として見出すこの私自身もいつか必ず死ななければならない存在です。
すると生きる意味という問いを考えるに当たっては最後はこの「死」という壁にぶち当たるのです。これは宗教的課題です。科学では解決できないものでしょう。
しかしどう考えようと肉体的な死は避けられません。ではどうやって死を超えるのか、それをごまかさず求めるのが宗教的求道なのです。
そういうことでなく、とにかく何かを見つけたいということであればそれで良いでしょう。
「誰か」や「何か」という生きる意味は出会いの中でしか見出されてきません。様々な人や物事の出会いによってそういうものが見出されてくると思います。
でも見出したものを「答え」として依存して握りしめてしまうと、いつかその「答え」を失うことは絶望になりますし、失わない時でもいつか失うのではという不安が押し寄せます。
つまり「生きる意味という問い」の解決は「答え」を見つけることでなく「問い」を「問い」として抱えて生きていけることになる事と言えるかもしれません。
そんなことしたくないし、そもそも「誰か」や「何か」ももう見つかる気がしないということもあるかもしれません。
ですが、私たちは「生きる意味という問い」を思い計らう以前に、現に生きている事実があるのです。生まれて生きているからこそこの問いを抱えているのです。
言うならば「答え」なんか見つからなくてもこれまで生きてきたという事実があるのです。
その時々で見出してきた目標は結局はその時々で変わっていくものに過ぎなかったということでしょう。そしてそれはこれからもそうなのでしょう。でもけしてそれは意味の無いことではないのです。
どうせ「ウ〇コ」になるから何を食べたって意味がないとはならないはずです。美味しいとか美味しくないとか、誰が作ったとか、どこで誰と食べたとか食事には色んな意味があるように、目の前のご縁の中に既に無限の意味があるのです。