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過去の罪

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有り難し有り難し 15

こんばんは、はじめまして。さんと申します。
私は過去にいじめをしていました。

小学生の頃と高校生になってから。どちらも周りから嫌われているからという理由で、仲間はずれにしたり授業中に仲間内で悪口をかいた手紙をまわしたりしていました。そんな酷いことをしたのに、私は相手の名前も忘れてしまいました。

大学生になり、次は、誰かを傷つけない人になろうとしました。その結果私がしたのは他人に無関心になることです。もう、大学の頃の同級生の名前はほとんど思い出せません。

そんな中、尊敬する先生ができて、その先生から「優しくて、責任感がある」と言われました。それが、酷く苦しいのです。本当に優しい人は誰もいじめませんし、他人に対して無関心になりません。責任感があるならもっと立派人間になれたはずです。

今私は、なんだかんだ良い環境にいます。多分、幸せの部類に入るのだと思います。それが苦しいです。
本当は優しくない無責任な酷い人間なのに、「優しい」という言葉をもらって、「責任感が有る」という言葉をもらって、のうのうと生きている自分に疑問を持ちます。

時折、死にたくなります。生きる価値もないのに、幸せになろうとしている自分が滑稽でこれ以上生きることが罪だと感じます。

なんでもかんでも中途半端にしてきて、今度は死んで逃げようとしています。生きる意味はあるのか、もうわかりません。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自己の否定と自己の肯定

さん様

優譽と申します。僭越ながら申し上げます。
「罪」と「悪」という2種類の言葉があります。似ている様で全く違います。
罪は過去に犯した事。悪は現在進行形で罪を作る姿です。

さん様は、過去に罪を犯しました。それを反省し傷つけない方法を模索し自分なりに行動に移しました。それは、優しいが故に出来た事。
自分の罪を正当化する事なく、他を配慮する姿が先生からは「責任感のある姿」に見えたのでしょう。

もし今の自分が許せないのであれば、過去に自分を変えたように無関心の自分をゆっくりと変えて自分自身が納得する「優しい、責任感のある姿」に変えてゆけばいいのではないでしょうか。焦りは禁物です。

自分を傷つけるのは簡単です。過去の罪を含めた洗いざらいの素っ裸を知っているのは自分自身ですから。
自分を守れるのも、傷つけるのも最後は自分自身です。
「生きるのが罪」かどうかは、今の行動が決める事です。
「生きる価値」なんてものは、後で付いて回るものです。
すぐに結果や評価を求めず、じっくりと前に進みましょう。

最後に。誰もが幸せになる権利があります。
さん様も例外ではありません。
取り留めのない回答で恐縮です。さん様の幸せを心より願っております。合掌

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有り難し
おきもち

無学無才の愚僧です。 皆様との縁を大切にし、学ばせて頂きます。
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質問者からのお礼

優譽様
私の方こそ、支離滅裂とした文であるにも関わらず、お返事を頂けたことに感謝しております。ありがとうございます。
正直に言うと、せっかく頂いたお返事を、まだ、どう受け止めたらよいかわかりません。ポジティブに都合よく受け止めるのは、人を苦しめた人間にあるまじき身勝手です。
しかしながら、そうやって、目を伏せて自分を傷つけることで、向き合ったつもりになっていたのだと気づきました。前に進むことを恐れて、後ろにいる過去の自分を傷つけていただけでした。
後ろを向く力を、前を見るため、前に進むため、使いたいです。

本当に、ありがとうございます。

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