友達
私はお友達が多いほうではありません。
私は虐められることが多く小学2年生からいじめを経験していました。それでも幼いながら頑張って生きていました。
小学5年生のとき、自分は友達がまったく居ないことに気づきました。友達がいるクラスメイトが羨ましくて大人しめのグループに「遊ぼう」と勇気をかけて声をかけました。私は仲良くなりたかったんですけど2回目に声をかけたときに「またきた」と小声で話してるのがきこえてしまいました。その時に悲しくてどうでもよくなってしまい残りの小学生期間は友達0人で過ごしました。
中学生になりお友達ができました。
中学生の3年間はとても楽しかったです。
ですが習い事でなぜかいじめを受けていました。女子からは理由も分からないまま急にシカトやはぶり、聞こえる声で悪口を言われました。
男子からは容姿のことや声のことの悪口をいわれ、酷いときは殴られたり蹴られたりされました。
私はずっと泣いていてその方達の親もみていましたが無視され病気扱いされました。
自分の親にいったのですがその方達は非を認めず結局私は習いを辞めました。
そのいじめは1年くらい続きました。
高校に入り、仲の良いことクラスがはなれまた1人になってしまいました。自分から声をかけたり最初のころはしていましたが性格が合わないのか話してくれる子はいましたが友達はできませんでした。
今まで小学生からいじめられたりはぶられたりしましたがあんまり泣かなかったんです。ですが高校に入ってから毎日泣いて、辛くて、友達がいないのが恥ずかしく感じてしまい1人でも平気と思い込んで強がってしまいす。
ここまで友達作りが上手くいかないのは私の性格に非があるのでしょうか?
最近は一生親友とよべる友達はできなくて孤独で生きていくんじゃないかと未来が不安でしかたありません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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これまでとこれから
こんにちは、初めまして。
文面からは、あなたの寂寥感が強く伝わってきます。
お悩みのことでしょう。
私も友達は多い方ではありませんでした。
むしろ、特定の数人(通常は特に一人)といった程度が多かったです。
まず、お話の前提として、私はいじめる、仲間はずれにするということに一切の正当性は無いと思っています。被害を被る側の性格とか、失敗とかそういうことを挙げていじめられる側にも相応の理由がある、などと言う人がありますが全くこれには反対の立場で以下を述べます。
精神的暴力を振るう正当性などありはしません。相手の向上を目的とした欠点の指摘や、時にけんかしたりは仕方がないとは思いますが、恒常的に集団で行う陰湿な行為にいかなる理由も私は認めたくありません。
小学二年生の時、「いじめられながら」も「幼いながら頑張って生きて」こられた。小学5年生のとき、友だちになろうと「勇気をかけて声をかけ」たけれど、冷たい言葉が返ってきて萎縮してしまったとのこと。ご自身でも状況を改善されようと努力し、耐えてこられたのでしょう。そのつらい日々を思います。
高校に入ってからも、「友達がいないのが恥ずかしく感じてしまい1人でも平気と思い込んで強がってしまいす」とのこと。
友達がいない
↓
恥ずかしい
↓
萎縮してしまう
↓
友達ができない
という悪循環に陥っているのかもしれません。
人間、一人では不安ですよね、
いくら、友達がいなくても平気と思い込もうとしても、そう思い切ることは根本的に難しいでしょう。
もちろん、同年代の友達に少しづつアプローチしていくことは大切です。
しかし、私が少し気になるのは、家庭の中でご両親とはどう接しておられるのか、ということです。気軽なコミュニケーションが出来ているのだろうか、と。
自分の内面や、表情の明暗等によって人は距離感を作ります。
深刻、寂しそうな面持ちの人には近づきがたく、明朗、のほほんとしている人にはいつの間にか吸い寄せられるという傾向があります。
一番身近な人とのコミュニケーションを今一度振り返っていただいて、もしご家庭内だけで対処できない場合は、家族療法などのカウンセリングを通じて円滑な感情、コミュニケーションのやり取りを身につけられることが根本的な解決につながっていくのでは、と感じました。
ご参考までに。
応援しています。