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煩悩(性)をどのように考えるのですか

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アラフォー男性です。今さらながら恥ずかしい質問ですがよろしくお願いします。
標記の質問です。親からは性欲は汚いもの、悪という考え方で育てられました。
何人かの女性とお付き合いし、結婚もし、子供も産んでもらいその後離婚しました。理由の一つがセックスレスだと思います。元嫁からはもっとセックスしてほしいと何度も言われましたが、そういう行為は恥ずかしいものだと思い、自分からは求めることはありませんでした。

もっと下品に相手に求めれば、結果は離婚になっても過程は違ったのではないか、と今でも思います。

煩悩を滅する、という言葉は習った記憶があります。でも、煩悩、特に性欲に関しては、本当に信頼している人としかできない最高のコミュニケーションではないかと離婚した後思いました。

仏教では性欲についてどのように考えているのでしょうか。もちろん犯罪にならないということは前提ですが。。

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「性欲」は煩悩の一つに過ぎない

こんにちは、初めまして。

「性欲」は人間にとって大きなテーマだと思います。
あなたもこのテーマについて、どのように整理すればいいかをお考えのようです。

「もっと下品に相手に求めれば」という表現の仕方に、あなたの「性欲」についての捉え方が表れているように思います。その行為は、「本当に信頼している人としかできない最高のコミュニケーション」であるはずなのに、「下品」であるという相反するような表現の並立だからです。

これは、あなたの言われているように、「親からは性欲は汚いもの、悪という考え方」で成長されたことに遠因はあるのでしょう。

仏教では、「性欲」だけを取り出して煩悩、という議論の仕方はしません。
そもそも煩悩とは、文字通り身を煩わし、心を悩ますもの全般を言うからです。

また、善悪という観点から言うと、どの宗派でも一様ですが、仏様に成る方向性の心・発言・行動を善といい、遠ざかる同様の行いを総じて悪といいます。

人間は皆、自分の都合、思い通りにしようとして行動すことが根底にあります。しかしながら、お互いが自分の思い通りに百%充足することなどありえません。だから、そこに身を煩わし、心を悩して苦しみが生まれる。これが基本的な考えです。

この意味で言えば、「性欲」も自分の都合に合わせた行いの一つに過ぎないと考えます。これだけを特に取り出す必然性がありません。

私は、浄土真宗の観点で言いますと、この煩悩を単純に肯定もしませんし、単純に否定もしません。単純に肯定すれば、先述のように自己都合によって悩むことを放置することになります。単純に否定すれば、人間として生きていけないことになります(全ての煩悩、欲を否定したら人間として生存できません)。

このため、私は「性欲」だけを取り出して否定するような不自然な議論はしません。「性欲」を持ったままで、それが行き過ぎた自己都合の発露にならないように顧みながら歩むのが自分の仏道だと思っています。それは、自分の考えた道ではなく、妻帯して歩まれた親鸞聖人が敷いてくださった仏道のおかげです。

あなたの今後の道選びの参考になれば。

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釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
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質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
お礼が大変遅くなりました。
大変勉強になりました。
今後自分がどのように自分と向き合っていくのか勉強になりました。

自分の煩悩、および性について改めて考えていきたいと思います。

ありがとうございました。

「煩悩」問答一覧

「足るを知る」と「向上心」のバランス

明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。   *   「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。   ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの   ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです   ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました   ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい   ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある    (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。?   少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 63
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