女子高生コンクリート殺人事件犯人への罰
以前、女子高生コンクリート詰め殺人事件という悲惨な事件がありました。
この事件を知り私は、本当にこの事件の犯人が許せず『司法は少年法で犯人たちを庇ったが、神仏は必ず彼らを罰してくれるはずだ』『因果応報があるのなら、この犯人たちは地獄に落ちるだろう』と願いました。
しかし、事件から数十年経過し、数年前、この事件の犯人がまた別の事件で逮捕されたそうです。
聞けば犯人の一部には妻や子供もいて、しかも『俺は人を殺したことあるんだぞ』と、件のコンクリート詰め殺人事件の話をネタに別の人を脅して再逮捕されたそうですね。
これを聞いて、私は絶望しました。
全く反省していないどころか、むしろあの事件のことを新しい犯罪を犯すためのネタにしていたなんてあり得ないです。
コンクリート詰め殺人事件の被害者の女の子は何の落ち度もないのに凄惨な殺され方をされ未来を断たれたのにも関わらず、犯人には家庭もありのうのうと生きています。さらに反省せず再犯を犯してます。
神仏は彼らを罰してくれないのでしょうか?
それから、インターネットを見る限り多くの人たちが犯人に怒りを感じ、掲示板に『死ね』などと発言していましたが、犯人たちは一向に元気です。よく『言葉には言霊の力がある』と言われますが、あれだけ恨まれ『死ね』と言われているにも関わらず『言霊の力』は彼らに届いていないのではないか、と思いました。
『言霊の力』だけでなく『生霊』や『念の力』に対しても疑いを感じはじめました。あれだけの人が怒りを感じているのだから誰か一人くらい『生霊』や『念』を無意識にでも意識的にでも飛ばしていてもおかしくないはずなのに、犯人はのうのうとしているみたいだからです。
これでは、犯人に殺された被害者が浮かばれません。
神仏の罰はないのでしょうか。因果応報はないのでしょうか。言霊の力や念の力、生霊なども全部存在しないのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
浅深
ご相談拝読しました。お気持ちは痛いほど伝わります。この世の理不尽への強い投げであると受け取りました。
さて、仏教において
・自業自得(自らの業の報いは自らが受ける)
・因果応報(生じた結果には原因がある)
は揺るぎ無い原理原則です。しかしこの概念がじつは物凄く難しいのです。私もまだきちんとおさえられているという自信がありません。
(なお、仏様はこの原則に目覚めた方であり、罪罰や褒美を人々にもたらす絶対者ではありません。)
この二原則から導かれるのが善因善(楽)果・悪因悪(苦)果という道理です。
どうしても私たちは自分の思う善悪・苦楽というイメージを離れられません。それにこの程度の善因にはこういう善果があってしかるべき(その逆も然り)という自らの損得勘定のモノサシに固執してしまいます。
しかし仏教で説かれる善悪・苦楽というのは覚に近付く方向性が善であり楽、覚りから遠ざかる方向性が悪であり苦なのです。世俗的価値観における善悪・苦楽の概念に当てはめては混乱が生じます。
もちろん仏教における善悪・苦楽も世俗的価値観におけるそれと無関係ではありません。ですから仏陀はそうした私たちの期待に沿うような形で教えを説くこともあります。
さてさて、『正法念処経』というお経にこういう文があります。
「智者の常に憂をいだくこと、而も獄中に囚わるるに似たり。愚人の常に歓楽すること猶し光音天のごとし」
智者は獄中に囚われているほどに憂い、愚か者は天に上るかのように楽に興じているというのです。
これは何を表しているでしょうか。
世間では様々な許しがたい犯罪事件が起きます。その犯人たちはどのような気持ちなのか私には伺い知ることはできません。
もしも罪の意識に無自覚であって、天に上るかのように楽に興じているように彼らが見えたとしたら彼らは幸せなのでしょうか。何の報いも受けていないのでしょうか。
私はそうは思いません。その薄っぺらい楽には彼らの虚しさが表れているのではないでしょうか。その在り方は浅いのではないでしょうか。
一方様々なことに思い悩み憂うような人はその在り方が深いからなのではないでしょうか。
真理を知らないがゆえに在り方が浅く、薄っぺらい楽に興じているとしたら、それは実はとてつもなく虚しいのではないでしょうか。
一度じっくり深く味わって考えてみてください。
因果応報はある
こんにちは、初めまして。
過去の凄惨な事件に心を傷められるそのお気持ち、私も同様です。
あなたの義憤、憤懣やるかたないお気持ちを私は理解した上で以下のお返事を書きます。
まず、お話の前提として犯人たちは当時未成年で氏名等は分からず、「数十年経過し、数年前、この事件の犯人がまた別の事件で逮捕されたそう」ということと同定することは、今の私には出来ません。
ただ、再犯を繰り返す事例があるのは事実であり、あなたが「神仏は彼らを罰してくれないのでしょうか」と問われることには一定の道筋があると思います。よって、この一般的な事例についてお答えしようと思います。
仏教的には、因果応報は基本の理です。
自分の業によって引き起こされた現実は、自分で引き受けていかなければならないい。それは、業に見合った分だけ、同等の報いを本人が受けるということです。
「犯人に殺された被害者が浮かばれません」とあります。
仏教は、生まれ変わり死に変わりという生死を永遠の長さで繰り返すという考え方をしています。あなたは、数十年の期間で因果応報を考えているようですが、これは先程述べた長さの感覚から言えば、とても短いところで考えてられるのではないでしょうか。
以前教えていただいた言葉です。
金は作って置いていく
罪は作って持っていく
仏法は聞かずに堕ちていく
必ず罪は今生、または来生で業に見合った同等の報いを受けます。
あなたが生活上で、自分の業を意識し、その報いを実感しているならば、自ずと納得できませんか。
神仏のことについてです。
あなたの宗旨や基本的な見方は存じませんが、浄土真宗の私から見れば仏様は人生苦しみからの開放を目指し、かつ説かれるお方です。つまり、超越的な力を持って人間に天災や賞罰を与える存在ではありません。
一方、あなたが言われている「神」が具体的にどのようなものかは分かりませんが、これは他宗旨になるのでお答えはできません。
『言霊の力』、『生霊』、『念の力』ということを、私の仏教では全く前提としていませんので、これもお答えができません。
他者はどうであれ、因果応報に基づいた仏道を粛々と歩んでいく。
これがあなたの出来うるところではないでしょうか。
ご参考まで。
質問者からのお礼
釋 悠水さま
ご回答くださり、ありがとう御座います。
確かに私は因果応報を数十年のスパンで考えており、さらに『今世の業は今世で、因果応報として返ってくる』と思い込んでいました。だから『そろそろ彼らに返ってくるはずなのに』と思い怒っていましたが、そもそも私が考える因果応報と、仏教での因果応報は全く違うものだと気が付きました。。当然、必ずしも私が思うようなタイミング、私が思うような形で彼らに返ってくるわけではないのだと気が付きました。。
ありがとう御座います。m(_ _)m
吉武 文法さま
ご回答くださり、ありがとう御座います。
おっしゃるように、私が思う苦楽と、仏教での苦楽は解釈が違ったようです。。
そしておっしゃいます通り『彼らが自分の過去のあやまちに無自覚のまま楽に興じていること』それ自体が、彼らが真理から遠ざかった状態で、さらに彼らがすがりついている楽というものも浅いもので、その状態そのものがある意味では彼らへの罰なのかもしれない、と気づくことができました。
どうもありがとう御座いますm(_ _)m