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女子高生コンクリート殺人事件犯人への罰

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有り難し有り難し 72

以前、女子高生コンクリート詰め殺人事件という悲惨な事件がありました。
この事件を知り私は、本当にこの事件の犯人が許せず『司法は少年法で犯人たちを庇ったが、神仏は必ず彼らを罰してくれるはずだ』『因果応報があるのなら、この犯人たちは地獄に落ちるだろう』と願いました。

しかし、事件から数十年経過し、数年前、この事件の犯人がまた別の事件で逮捕されたそうです。

聞けば犯人の一部には妻や子供もいて、しかも『俺は人を殺したことあるんだぞ』と、件のコンクリート詰め殺人事件の話をネタに別の人を脅して再逮捕されたそうですね。

これを聞いて、私は絶望しました。
全く反省していないどころか、むしろあの事件のことを新しい犯罪を犯すためのネタにしていたなんてあり得ないです。

コンクリート詰め殺人事件の被害者の女の子は何の落ち度もないのに凄惨な殺され方をされ未来を断たれたのにも関わらず、犯人には家庭もありのうのうと生きています。さらに反省せず再犯を犯してます。

神仏は彼らを罰してくれないのでしょうか?

それから、インターネットを見る限り多くの人たちが犯人に怒りを感じ、掲示板に『死ね』などと発言していましたが、犯人たちは一向に元気です。よく『言葉には言霊の力がある』と言われますが、あれだけ恨まれ『死ね』と言われているにも関わらず『言霊の力』は彼らに届いていないのではないか、と思いました。

『言霊の力』だけでなく『生霊』や『念の力』に対しても疑いを感じはじめました。あれだけの人が怒りを感じているのだから誰か一人くらい『生霊』や『念』を無意識にでも意識的にでも飛ばしていてもおかしくないはずなのに、犯人はのうのうとしているみたいだからです。

これでは、犯人に殺された被害者が浮かばれません。

神仏の罰はないのでしょうか。因果応報はないのでしょうか。言霊の力や念の力、生霊なども全部存在しないのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

浅深

ご相談拝読しました。お気持ちは痛いほど伝わります。この世の理不尽への強い投げであると受け取りました。

さて、仏教において

・自業自得(自らの業の報いは自らが受ける)
・因果応報(生じた結果には原因がある)

は揺るぎ無い原理原則です。しかしこの概念がじつは物凄く難しいのです。私もまだきちんとおさえられているという自信がありません。
(なお、仏様はこの原則に目覚めた方であり、罪罰や褒美を人々にもたらす絶対者ではありません。)

この二原則から導かれるのが善因善(楽)果・悪因悪(苦)果という道理です。

どうしても私たちは自分の思う善悪・苦楽というイメージを離れられません。それにこの程度の善因にはこういう善果があってしかるべき(その逆も然り)という自らの損得勘定のモノサシに固執してしまいます。

しかし仏教で説かれる善悪・苦楽というのは覚に近付く方向性が善であり楽、覚りから遠ざかる方向性が悪であり苦なのです。世俗的価値観における善悪・苦楽の概念に当てはめては混乱が生じます。

もちろん仏教における善悪・苦楽も世俗的価値観におけるそれと無関係ではありません。ですから仏陀はそうした私たちの期待に沿うような形で教えを説くこともあります。

さてさて、『正法念処経』というお経にこういう文があります。

「智者の常に憂をいだくこと、而も獄中に囚わるるに似たり。愚人の常に歓楽すること猶し光音天のごとし」

智者は獄中に囚われているほどに憂い、愚か者は天に上るかのように楽に興じているというのです。

これは何を表しているでしょうか。

世間では様々な許しがたい犯罪事件が起きます。その犯人たちはどのような気持ちなのか私には伺い知ることはできません。

もしも罪の意識に無自覚であって、天に上るかのように楽に興じているように彼らが見えたとしたら彼らは幸せなのでしょうか。何の報いも受けていないのでしょうか。

私はそうは思いません。その薄っぺらい楽には彼らの虚しさが表れているのではないでしょうか。その在り方は浅いのではないでしょうか。

一方様々なことに思い悩み憂うような人はその在り方が深いからなのではないでしょうか。

真理を知らないがゆえに在り方が浅く、薄っぺらい楽に興じているとしたら、それは実はとてつもなく虚しいのではないでしょうか。

一度じっくり深く味わって考えてみてください。

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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因果応報はある

こんにちは、初めまして。

過去の凄惨な事件に心を傷められるそのお気持ち、私も同様です。
あなたの義憤、憤懣やるかたないお気持ちを私は理解した上で以下のお返事を書きます。

まず、お話の前提として犯人たちは当時未成年で氏名等は分からず、「数十年経過し、数年前、この事件の犯人がまた別の事件で逮捕されたそう」ということと同定することは、今の私には出来ません。

ただ、再犯を繰り返す事例があるのは事実であり、あなたが「神仏は彼らを罰してくれないのでしょうか」と問われることには一定の道筋があると思います。よって、この一般的な事例についてお答えしようと思います。

仏教的には、因果応報は基本の理です。
自分の業によって引き起こされた現実は、自分で引き受けていかなければならないい。それは、業に見合った分だけ、同等の報いを本人が受けるということです。

「犯人に殺された被害者が浮かばれません」とあります。
仏教は、生まれ変わり死に変わりという生死を永遠の長さで繰り返すという考え方をしています。あなたは、数十年の期間で因果応報を考えているようですが、これは先程述べた長さの感覚から言えば、とても短いところで考えてられるのではないでしょうか。

以前教えていただいた言葉です。

金は作って置いていく
罪は作って持っていく
仏法は聞かずに堕ちていく

必ず罪は今生、または来生で業に見合った同等の報いを受けます。

あなたが生活上で、自分の業を意識し、その報いを実感しているならば、自ずと納得できませんか。

神仏のことについてです。

あなたの宗旨や基本的な見方は存じませんが、浄土真宗の私から見れば仏様は人生苦しみからの開放を目指し、かつ説かれるお方です。つまり、超越的な力を持って人間に天災や賞罰を与える存在ではありません。

一方、あなたが言われている「神」が具体的にどのようなものかは分かりませんが、これは他宗旨になるのでお答えはできません。

『言霊の力』、『生霊』、『念の力』ということを、私の仏教では全く前提としていませんので、これもお答えができません。

他者はどうであれ、因果応報に基づいた仏道を粛々と歩んでいく。
これがあなたの出来うるところではないでしょうか。

ご参考まで。

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有り難し
おきもち

釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
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質問者からのお礼

釋 悠水さま
ご回答くださり、ありがとう御座います。
確かに私は因果応報を数十年のスパンで考えており、さらに『今世の業は今世で、因果応報として返ってくる』と思い込んでいました。だから『そろそろ彼らに返ってくるはずなのに』と思い怒っていましたが、そもそも私が考える因果応報と、仏教での因果応報は全く違うものだと気が付きました。。当然、必ずしも私が思うようなタイミング、私が思うような形で彼らに返ってくるわけではないのだと気が付きました。。
ありがとう御座います。m(_ _)m

吉武 文法さま
ご回答くださり、ありがとう御座います。
おっしゃるように、私が思う苦楽と、仏教での苦楽は解釈が違ったようです。。
そしておっしゃいます通り『彼らが自分の過去のあやまちに無自覚のまま楽に興じていること』それ自体が、彼らが真理から遠ざかった状態で、さらに彼らがすがりついている楽というものも浅いもので、その状態そのものがある意味では彼らへの罰なのかもしれない、と気づくことができました。
どうもありがとう御座いますm(_ _)m

「世の中・社会のできごと・風潮」問答一覧

現代社会と本来の豊かさについて

悩みというよりは漠然と考えてしまうことがあります。        私は会社を起業し10年ほどになります。     会社とは何か?という本を設立当初に読み、 そこには『社会に必要とされているもの。人の役に立っているから存続が出来、人の役に立たない会社はなくなっていく』と書かれていました。     右も左も分からない中での起業でしたが、自身にそのような志が強くありましたし、その本に書いてある言葉に納得し、一生懸命頑張ってきました。     設立前から準備していたことや、業界を分かっていたこともあり、心身の苦しさや辛さはありながらも、経営は順調に右肩上がりで伸びていきました。 しかし、何処かでとても苦しさのような葛藤がずっとあります。     社会がいかに利益追求型の仕組みで弱肉強食であることを肌で感じること、それでも日々闘い続けねば生き抜けない。 競争社会、資本主義社会という中では当たり前のことだと理解すればするほど。 中小企業の社長さん達も皆んな日々闘い続けているんだなぁと思いながら。     そういう渦中で、自分の心身はいつも振り回され乱れるばかり疲弊する日々が数年続き、 自身を見つめ直したり心を丈夫にする為に色々と模索してきました。     そうした中で見つけたものは、お釈迦さまの教えや禅的な考え方でした。   日本では宗教にハマると聞くと直ぐに悪い意味で捉えられることが多いですが、 何か目印になるような共感できたり学べるような考え方というものに救われることに有り難さが溢れてきて泣きそうになります。   自身が人の為になることを〜と思い起業しましたが、会社を通して社会を知り、そこに向き合った今の時点で想定もしていなかった答えがあったように感じています。   知り合いに若いお坊さんがいますが、もっと遊びましょう、もっと休んでください、自分は人生遊んで過ごします。とよく仰っています。実際夜遅くまで飲みに行ったりしていて、誘ってくることも多いです。(行きませんが) そのお話しも極端に思えて、私には失礼ながら浮世離れしすぎていてついていけません。   長くなってしまいました。 文章がまとまっておらず伝わっているか不安ですが、 お坊さん達は今の資本主義社会と仏教の教えに乖離を感じますか? 感じられる方はどうバランスを取られていますか?

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日本が一番ではない

僕が24年間生きている中で日本が一番ではありません。みんなは日本が一番だと言ってますが。日本つまらないし毎日刺激もないし変化が全くありません。サッカーの試合も見ましたがあまりつまらなかったです。なんかサッカーにはスター選手いないので面白くありませんでした。Jリーグの試合見ましたがつまらなかったです。ラグビーの試合見ましたが一方的な展開すぎて全くつまらなかったです。しょうもなさすぎました。日本脱出したいです。お金がないので今年全く関西から出たことがありません。出てみていろいろ体感してみたいです。何も楽しくありません。学生生活も全く楽しくなかったです。 日本生きてますが個性が全くありません。日本人も何となく生きてる人が多いような気がします。日本も少子高齢化が年寄りやおっさんが多いような気がします。僕にとっては楽しくもありません。ランダムチャットも利用しましたが喋ってみても全くくだらなかったです。ランダムチャットしましたがしょうもない人多かったです。考えも偏っているようにも思えます。日本には閉塞感がありすぎてつまらないです。日本楽しくもありません。日本は真面目な人多いので過ちや誰にも迷惑かけてない人が多すぎて万引きやカンニングなどの過ち犯したり人に迷惑かけたり(それは当たり前ですが…)失敗したら許されない国なので自殺者も多いのではないかとも思います。日本自殺大国になると思います。 日本人も世界情勢や世界のことに興味がない人が多いようにも感じます。 日本の気候も暑さ寒さの寒暖差が激しすぎて日本の四季に耐えれず嫌になります。 東京も行きましたがサラリーマンが多く殺伐とした風景や混雑が激しすぎて嫌になります。 今までも教習所で高圧的にされたことや偉そうにされたことやバイト先でも上司があまりにも態度悪い人もいて日本が一番とも思いません。たまたま人の答案が見えてしまったりしました。やっぱり日本悪い国だなと思います。みんな日本いい国やいい国やと言ってますが僕はそう思いません。 僕が思う日本のいいところは治安がいいところと料理が美味しいところと生活水準が高いところぐらいです。どこの国もいいところは最低1、2個はあると思います。 やっぱり僕にとっては日本が一番ではありません。

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日本に盛り上がりが全く足りないです

今、大阪にいますけど閉鎖的で盛り上がりもなく楽しくありません。地下鉄に乗っていますが表情が暗い雰囲気を作って楽しくもありません。夜もアメリカのようにパーティーみたいな盛り上がりもなくて寂しいです。日本は閉鎖的な国だとも思います。 ラグビーワールドカップ2019イングランド対アメリカではかなり賑やかやったしパーティーしてたようにも思えます。結構、日本よりも盛り上がっていたようにも思えます。イギリスやアメリカはパーティー文化がある国にも思えます。イギリスやアメリカの方が個性的な人いたような気がします。 アメリカ行ったことがないので自分には分かりませんが日本よりも個性がある人が多いようにも思えます。 僕にとっては10年前頃ですが、明光義塾北巽教室通ってた時は個性的な先生もかなり居ましたし、活気もありました。まあまあパーティー的に盛り上がっていたと思います。明光義塾北巽教室では賑やかでワイワイしてて僕にとっては楽しかったのです。明光義塾北巽教室Twitter(現在はX)では個性感半端ないな。キャラ感凄いなと書いたらいいね1つくれました。親には明光義塾北巽教室勉強するところやのに遊びに行ってた所が怒られました。 そういうの日本ではなかなか無いから寂しいです。日本の閉鎖的な環境が辛すぎてたまりません。パリピみたいな盛り上がりが好きでたまりません。日本は雰囲気が暗い国だなと思います。 日本生きるのが活気と盛り上がりが無さすぎて辛いです。日本人って個性が全くない人ばかりでつまらないです。僕の近所でも全くパーティーみたいに騒ぎがないのがつまらないです。 日本は治安も良くてご飯が美味しいと言う理由からいいって言っていますけど僕はそう全く思わないです。 日本は衰退国家だなと思います。日本は閉鎖的すぎて嫌になります。日本に生きていてもつまらなさすぎて嫌になります。だからアメリカ移住したいです。 四谷学院の校舎長に言われましたが大学は盛り上がりはないと言われ、寂しいです。辛すぎます。大学でも遊びに行っている人や騒ぎに行っている人もいると思います。僕は日本が大嫌いです。日本は同じことばかり過ぎてつまらないです。 サテライトオフィス平野に通っていますが、その事が悩みすぎて集中出来ないことがあります。 日本では盛り上がりや活気が全くないので暗いし寂しいししんどいです。

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日本は姥捨山を求めている

「今の日本は傾いているから誰かを犠牲にしたい」という感情が蔓延している、ということを声を大にして言いたいのです。だから、私のような無能は人権を放棄しなければなりません。そもそも、労働に縛られている時点で普通に生きられている人間にも人権がないからです。 増税や経済的負担に対する抜本的解決がない以上、「障害者をガス室送りにしなければならない」「生産性のない人間をガス室送りにしなければならない」という思想が蔓延するのは必然です。価値のある人間しか生きることを許されないのです。 社会や世界全体への不信感が強烈で、もうどうにもならなくなっています。けれど生きるには労働しなければなりません。私を傷つけ苦しめ貶め殺すためだけの場所に入っていかなければなりません。そうしないと人権が買えないからです。 自分を殺さないと人権が買えない。けれど人権を買ったところでいつ足元が崩れるかわからない。自殺推奨活動のほうがよっぽど慈悲深く思えてしまうのですが。 こんなクソみたいな世界で、どうして自分を殺してまで生きるしか方法がないのでしょうか。どうして、不幸になるしかないこんな世界がいまだに続いているのでしょうか。この怒りをどうしたらいいのか全くわからないのです。 壁を殴ったらヒビが入る。そういう、自分のアクションに対して当たり前の反応が返ってくる、という経験が薄く、その度に苛立ちが募ります。自分が気にならない、話を聞いても何が悪かったのかよくわからないことで長々と詰められ、こちらの言い分は何一つ聞き入れられない。そういう不公平さの中で生きてきたので、何に対しても「自分を殺せばいいじゃない」としか思えません。だって、人間は自分以外の誰かが犠牲になることを望む生き物ですから。私は誰の犠牲になれば良いですか?私の代わりに誰が犠牲になってくれるのですか? どうせどう生きたって誰かに支配されたまま終わるのです。そうしないと人権が買えないから。現実を見れば見るほど嫌な気持ちだけが募ります。この世界に救いはない。あるのは泥のような絶望だけ。はーあ、努力とかくだらない。今まで言われてきた沢山の言葉に対する恨みが消えない。でも他人から見たら悪いのはぜーんぶ自分。やってられない。どうせ「悪いのは私でした」という反省のポーズしか望んでいないのだからロボトミー手術を受けなければ私はこの世界に生きる権利を与えられない。

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やはりこの世界は信用に値しない

また新たな戦争が始まりました。明日は我が身でしょうか。 「報道しない日本メディアはダメだ」と言われています。私たちは平和ボケしているのでしょうか。まあ日本が戦争に巻き込まれるのも時間の問題ですね。私たちに未来なんてない。現実なんて汚らしくて残酷なものでしかない。 この世界のシステムに耐えきれなくなった憎悪が世界中で噴出し騒乱を巻き起こしているマクロな事実と、そんな完璧ではない人間という生き物から一方的に「あなたが間違っている」「あなたが変わればうまくいく」と言われ続けたミクロな怒りが混ざり合って何もかもが馬鹿馬鹿しいとしか思えません。だから生きているのが嫌なんだ。 仏教だって結局、生きるも死ぬも理不尽しかないものだから何か納得できるだけの理由をこねくり回した結果でしかないでしょう。「全部私が悪いので悔い改めて、私の全部をこの世界に捧げます」と生きなければこの生命という不愉快極まりないシステムから解放されないのですか。喜んで火の中に飛び込む兎になれと。結局望まれているのは自己犠牲じゃないですか。生き物は、自分のために自分以外のものが犠牲になることを望んでしまうものなのです。 どれだけ努力したところで、自分とは関係ないもっと大きなものによって簡単に潰される。この国のシステムも欠陥だらけで有事に対応できると思えない。いつ殺されるかわからないから、いま生きていることに感謝すべき? そう思うにはこの世界はあまりにも汚らわしすぎます。ずっと言ってきましたよねこの世界は生きるに値しないと。その決定的証拠がまた一つ増えたんですよ。生きるも死ぬも誰かの天秤の上。人権なんて初めからなかった。第三次世界大戦はいつ起こりますか? 私たちは死ぬ準備をしなければなりません。 薄氷の上の平和すら貴重品となってしまった世界で、その平和の中にいながらうまく生きられない罪悪感。自分の在り方を否定され続けてきたが故の「どうせ自分なんていらないんでしょ」という感情と閉塞感。秒読みとなった戦前危機に対する焦り。人間という生き物への困惑。未来に対して絶望視しかできない。こんな世界の中でどう生きろと。けれど何を言われても響きはしない自分自身に対しての苛立ち。今の世界を見ても美しいと言えるでしょうか。 結局、傲慢でなければ生きられない世界。2025年を迎えられるといいですね。きっと無理だろうけど。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ