死ぬ間際の人間のありかた。
人は、死ぬ間際、どういう心持ちでいたら良いのでしょうか。
死ぬ瞬間。
浄土系の教えでは、弥陀来迎を信じ、弥陀にお任せして、心穏やかに
最後の時を迎える事だと思います。
死の間際、恐怖なく安穏で居る事は並大抵じゃない。
高度な仏教哲学も、「自分が成っていないと」生老病死の苦しみに対する、屁の突っ張りでしかない。
「成った事」すら、無明を前にして、自覚出来ない気がします。
だとしたら、方便でも、心穏やかに最期を迎えられる、浄土系の教えは、在俗の者に有効なのかなと思いました。
学究であり、優れた人格の法然上人の、庶民への優しさかなと思いました。
しかし、究極の真理は、「自浄其意」だと思います。
しかし、禅宗にも一抹の疑問が涌きました。
「六道輪廻は生きる人間の心の有り様。」と、輪廻思想を切り捨てると、
「而今」の真理から言えば正しいですが、施餓鬼等、自身が行っている事も否定してしまう。
正自覚者である釈尊が、見通した世界。インド土着の世界観等々と切り捨ててはいけない気がするんです。
だとすると、死の間際の心の有り様は重要なのではないでしょうか。
人生に一度しか経験しない、最大恐怖の死。
生老病死の最大恐怖。
何かすがるものがなくても、灯明の如く寂滅できるものでしょうか。
お坊様方は、人は死の直前、間際、どのような状態に居るのが理想と思われますか?
何もかも放下して、消え行く中。
どんな気持ちでいるべきなのでしょうか。
最大の疑問です。 どうぞ、ご教示くださいますよう、お願い致します。
暗中模索で、よくわかりません。。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【他力本願】
「死ぬ覚悟、できてますか?」
という冊子を2,3年前に書きました。「誓教寺」あるいは「seikyoji」ホームページで探してみてください。ダウンロードして見られると思います。
①財産は持って行けない。②親しい人々も持って行けない。③自分の体さえ持って行けない。④心というか業だけ、次の転生に持って行けるので、①~③への執着をなるべく減らして、しかし無関心では業もよくならずどうにもなりませんから、慈しみの気持ちで接して生きていましょう、ということになります。
慈しみの気持ちをどうやって心に作ればよいか、執着を減らす方法は、などが、仏教の修行の部分で、それについても触れています。ご参照ください。
現代日本では、ほとんどの人が、何も考えずにわがままに生きて死ぬとき慌てる生き方に陥っています。それよりもはるかに尊い、自分を見据えた究極の問いだと思います。仏教ではこの問題にこそ真剣に取り組んでいます。
質問者からのお礼
転落院 様
ご回答、ありがとうございます。
幾様にも受け取れる、含蓄ある言葉、参究の一助とさせて頂きます。
藤本晃 様
藤本和尚様、感謝申し上げます。
実は、「死期が近付くと生命は震えるもの」という経典の一節、そして、死の間際の心の有り様が、輪廻転生に影響する事、その事を考え、理解が及ばなかったので、質問したという経緯があります。
藤本和尚様がご案内下さった施本に、その答えが簡潔明瞭に載っておりました。今後、繰り返し拝読させて頂きます。
お礼が遅れましたのは、日本の伝統宗教では、どのような見解か知りたいと思ったからです。
しかしながら、回答は頂けませんでした。
藤本和尚様の施本によるご法話は、上座部にも、祖師仏教にも偏らない、日本の仏教の歴史の延長で、仏教が本来の姿で、衆生の下に再び光を放ち始めた様な感を受けました。
究極的には、自力も他力も差はなく、その根は同じと思いますので、浄土、真宗、真言、法華、臨済、曹洞…様々なお話を伺いたかったのですが…。
難解な日本仏教哲学は、己自究明の回り道なのかなと思いました。
藤本和尚様が、「胸を張って日本仏教を…」と書かかれていましたが、その言葉には感動しました。
お釈迦様の真理を、現代の日本人が実践、参究する事が、日本という土地で生まれた日本人が、仏教に根差した、高度な文化の再生、そして日本人として、仏教徒として誇りを持って、より良く生きられる術のような気がしました。
ありがとうございました。