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阿頼耶識とは

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こんにちは。浄土真宗を学んでいる者です。僕はこれまで阿頼耶識というのは無意識のことだと理解していましたが、どうやら無意識は「意識」のカテゴリーに入るみたいですね。では魂なのかと考えましたが、魂は我の絶対化なので諸法無我という考えに反しています。そこで、ある本を見つけ阿頼耶識というものは「業を保管する意識だ」という記述を見つけました。しかも、業というのは永遠不滅だということですが、一体どういうことなんでしょう?魂と何が違うのか分かりません。永遠不滅というのも、諸法無我の法則に反してはいないのでしょうか?どなたかとても分かりやすく解説お願い致します。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

なぜ真宗の勉強から阿頼耶識になるのか分かりませんが……

まず業から行きましょうか。業とは影響のようなものです。例えば徳川家康は死んでいます。家康の心身は永遠不滅ではありません。ところが家康がやったことは無くなりませんね。家康がもたらした社会の変化がたとえいつか人類に忘れられることはあろうとも、変化させたこと自体は変わりません。そして世界は家康が色んなことをやったなりの世界として進んでいきます。それが業が不滅であるということです。

次に魂については論じる必要はありません。お釈迦さまが「無記」という教えの中で「身体と生命(魂)は別物か」について「考えるな」とおっしゃっていますので、仏教はその前提で成り立っています。

それに関連して、じゃあ無我とは何か?輪廻とは何か?という話です。これは当然、前提となる我とは何かについて理解せねば話が進みません。じゃあ我とは何かというと、確実に字数オーバーするので私の動画をご覧ください
https://youtu.be/VSIsg-Cpy8s

このさざれ石のような自分、生命の繋がり、あるいは原因と結果の繋がりと呼んでいるものの全体が我なんです。だから魂とかホントにどーでもいーんです。魂が大切だったら、私たちは魂を失うことを恐れることになります。しかし生命の繋がり全体が我であるなら、私たちは魂や心身を失うことを恐れる前提そのものが無くなっちゃうんです。仏教とは、そういう方向性です。

その一方で、私が私であるということもまた、個性ある私であることもまた、世界の流れの結果です。詳しくはこちらの動画


全であり個、個であり全というのが我なわけですね。
そうした時に、全にフォーカスすれば、家康が色んなことをしたなりの世界であるということは分かりやすいです。だって世界ってそういうものでしょう?
逆に個にフォーカスした時に、家康が色んなことをしたなりの斉木さん、家康の影響を受けたなりのあなたであるということもまた、事実なんです。その家康の影響があなたのどこかにあるはずです。ソコが阿頼耶識です

しかしそれは目や耳のように指させるものではありません。だから唯識の経典でもしばしば「ここまでくるとよく分からん。誰にも分からんものだからしゃーない」という感じで書かれていたりするそうです。まぁ、言うなれば影響の吹き溜まりなんですから当然ですわね

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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難しいですねえ…

こんばんは。阿頼耶識とはまた難しい内容に挑戦していますね。恥ずかしながら私にはよくわからないものです。

真宗大谷派では曽我量深が「法蔵菩薩は阿頼耶識なり」とおっしゃったため、この阿頼耶識についても学ぶ人は一定数いるようです。私はまだそこまで足を踏み入れられていません。

ですが先日⇩の本に

『親鸞に聞く大無量寿経の意 Ⅱ』藤場 俊基
http://samgha.shop-pro.jp/?pid=151199335

このことが載っていて興味深く読む機会がありました。よかったらご参照ください。

さてさて、斉木さんが読んだ本の文脈がわからないので何とも言えない部分もありますが私なりに少し考えてみます。

阿頼耶識というのは音写語で意味を取ると蔵識(ぞうしき)と訳されます。識(しき)の蔵(くら)ですね。

認識対象を認識した結果が納められる蔵です。認識対象を認識したところからまた次の認識に移るという連続性はこの認識主体として阿頼耶識を設定することで可能となるようです。認識主体がなければ認識がバラバラになってしましますが私たちは認識の次の瞬間も私たちでしょう?「(意識下の)記憶」とも言えるでしょうか。つまりある意味では私たちの認識構造を考える上で仮に設定されるものですね。

私たち凡夫は認識対象である様々なモノ・コトを実在的に考えていますがそれは迷いであり、真実としては識(心)の表象(現れ)でしかないとするのが唯識(ゆいしき)です。

最終的には認識対象も認識主体(阿頼耶識)も消滅し、対象と主体が分別されない境地が覚りであるようです。

迷いの凡夫が迷いを超えるためには迷いながらでも考えるための手がかりが必要です。阿頼耶識自体が固定的・実体的にあるというのでなく、覚りに至るための道において一つの考えとして導き出されたものということではないでしょうか。

>業というのは永遠不滅

についてはよく分かりませんが、これも固定的・実体的な内容でなく、業報(行為に付随する影響)として作用するという意ではないでしょうか。

私自身がよく分かっていない内容のため混乱させて申し訳ないですが、基本的には諸法無我を原則として考え、固定的・実体的・不変的に語られるようなものは迷いの構造を表す方便と見ると良いのかもしれません。

いきなり一切は無我だ!空だ!では取り付く島もないですから。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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阿頼耶識とは

斉木さん、こんばんは。

あくまでもひとつの説としてお聞きいただけると幸いです。

阿頼耶識を簡単に現代語化すると「記憶」になります。

本来諸法無我の仏教ですから、生まれ変わりは認めないのですが、生まれ変わりを容認しないことには生まれ変わりを心から信じている人の心には届かないので、苦肉の策として、魂の生まれ変わりではなく、記憶の生まれ変わりを説くようになりました。無著・世親の時代です。記憶なら変わり続けるので、諸行無常にも矛盾しないということで開発された、一種の方便であり、大衆に寄り添ったわけです。その流れが今もチベット仏教として残っています。

阿頼耶識は蔵のようなもので、私たちの体験・経験、遺伝情報などが詰まっている場所とお考え下さい。その「記憶」はさらに体験・経験によって情報が追加されたり、上書きされたりします。

目や耳などから入ってきた情報は阿頼耶識を通って色付けされ、末那識を通って「私が」とラベリングされ、意識上にのぼってきます。しかし、阿頼耶識には本当の真実はほぼほぼなく、基本的に思い込みや誤解、偏見、刷り込みなどでできあがっています。したがって、私たちが外界から受け取る情報は、そのままありのままではなく、加工された状態で意識上に上るので、色眼鏡をかけたような状態と例えられたりします。少なくとも概念という人間が独自に編み出した仮のフレームで物事をとらえようとしますが、それはすでに真実からずれています。仮のフレームであるにも関わらず、真実だと思い込むので、そこに執着が起こります。

業というのは行いですから、私たちの行いも経験として阿頼耶識に溜め込まれます。その行動は自分の色付けをして、いいことをした、悪いことをしたと溜め込まれていくわけですが、人の発言という体験によって上書きされたりもします。悪いことをしたという業がたまるとストレスがたまり、そもそもの心理状態(入ってきた情報に色付けする阿頼耶識の機能)が不安定になります。余裕がなくなり、普段なら気にしないことでも気になるようになったり、過剰に対応したりしてしまいます。

五蘊の中で考えると阿頼耶識は識(意識)にカテゴライズするしかないですが、識を認識機能と捉えるなら、別物として扱った方が理解しやすいと思います。

少しでも参考になれば幸いです。

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おきもち

世親(天親)菩薩

唯識思想を大成したインドの世親(天親)菩薩は、浄土教にとって重要な「往生論(浄土論)」という注釈書を書かれた方で、親鸞さんの「親」は世親菩薩のお名前からいただいた字ですよね。
なので、浄土教と唯識思想は密接に関わりがあります。
全ての現象は心が造り出す。極楽浄土も心(識)が造り出す。
識は業や因縁によって瞬間瞬間に変化しています。
この変化を「転変」と呼びますが、この転変のサンスクリット語「パリナーマ」は、「回向=えこう」のサンスクリット語でもあるのです。
阿弥陀仏の本願と回向、私たちの念仏と回向、一切唯心造、極楽浄土。。。
世親菩薩の頭の中では、全てがつながっていたのかもしれませんね。
私たちの行為(業)は、種子としてアーラヤ識の土壌に蓄えられ、時間を経てやがて種から芽が出るように、業の報いが顕れるわけです。
過去の業の影響、因縁は目に見えなくても水面下で縁起しているという程度の理解で良いのでは?

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

大慈様、回答ありがとうございます。阿頼耶識というのは仏教の基本ですよね。真宗(本願寺派)の場合は、死後の六道輪廻を説いているため、なぜ輪廻するのかという疑問で始まり、阿頼耶識で行き詰まってしまったので、質問した次第です。
業の不滅というのが一番疑問に思っていたのですが、「影響」という言葉がすごく腑に落ちました。
様々な用語の解説、ありがとうございました。

吉武さん、回答ありがとうございます。そうですね。阿頼耶識というのは非常に紛らわしい概念だと思いました。
一見すると魂のように思ってしまいました。永遠不滅だの輪廻するだのまるで魂としか思えない概念ですよね。
業の不滅というのは、吉武さんの言うように業報(大慈様から→)影響のことのようですね。諸法無我という基盤から間違わない理解をするようにします。
唯識などについてもまだまだ不勉強なので、「識」というものについて理解できるように頑張っていこうと思います。ありがとうございました。

今小路覚淳様、回答ありがとうございます。
なるほど。紛らわしい概念の理由が分かりました。大衆に寄り添った結果苦肉に生み出された概念なのですね。
阿頼耶識というのは「記憶」のことですか。たしかに記憶なら変化しますからね。普通の仏教の場合は比較的現実的な考え方なのでそれで納得ですが、死後の輪廻がある宗派では難しいですね。もし、死ぬ直前に記憶が全て無くなったら輪廻はどうなるのか笑。浄土真宗の場合は基本的には死後が怖い人のための宗派(少なくとも僕はですが)と言えるので、僕としては不完全ながらも大衆に寄り添って阿頼耶識を作ってくださった方に感謝しています。
分かりやすい回答ありがとうございました。

願誉浄史さん、回答ありがとうございます。親鸞さんは世親菩薩から影響を受けていたのですか。勉強不足でした。
やはり、浄土系の宗派では唯識と密接に関係があるのですよね。識が極楽浄土を作るというのもかなり興味深いです。
よく「心に浄土がある」と聞きますが、心(識)が浄土を生む結果になる。ということでもあるのですよね。
色々勉強させてもらいました。ありがとうございました。

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