反芻思考と自責の念に駆られ苦しんでいます
昨日飼い犬を亡くしました。
「元気がない」「呼んでも来ない」「食欲がない」「歩けず座り込む」「涙が出ている」など、様子がおかしいと、明らかなる異変に気付いていたのに、きっと大丈夫と決めつけ、
取り敢えず少し様子を見ようと、
こちらをじっと見つめてくる目を無視して、
仕事に行ってしまいました。
コロナ中で在宅勤務をする事も出来たし、会社を休んで病院に連れて行く事も容易だったにも関わらずです。
また、帰宅後苦しそうに横たわる犬を見た際にも、焦りはするもののかかりつけの病院は閉まっているから、もう少し様子を見ようと。
救急病院に駆け込んだ時には既に手遅れで、
医師に、なんでこんなになるまで放っておいただと、口には出さないものの責められるのを感じました。私には弁解の余地は無く、泣く権利さえないと。
何回も救うチャンスはあったし、何度も飼い犬は私に訴えていたはずです。苦しい、助けてと。
自分がその訴えを軽視し、
死に追いやってしまった事が、許せずに苦しくて、何をしていてもキツイ状況です。
私が仕事をしていた時、飼い犬は苦しんでいた。
私が食事をしていた時、飼い犬は苦しんでた。私がパソコンをたたいていた時、飼い犬は苦しんでいた。
ここの所、転職の事で悩んでいたりはあったのですが、とにかくどんな状況であっても、愛する者には目を向けるべきだっ足し、声に耳を傾けるべきでした。
取り返しのつかない後悔で、
毎日、どうしていいかがわからない。
何をしていても辛いといった状況です。
今日は骨壷に泣きついて謝りました。
私の声は、亡くなった飼い犬に届く事はあるのでしょうか。
とにかく申し訳なくて。
何度も何度も、救えたかもしれない瞬間に戻っては、自分を責め続けています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
いつの日か、もう一度、あの子を抱きしめるその日まで。
そんなことがあったのですね。。。
時間を戻せるのなら、そう悔やんでしまいますよね。
大切な子だったのですね。
きっと大丈夫よって、信じていたのでしょ?
だから、だから、遅くなってしまった。
よく頑張った子だったわね。
今はごめんなさいでも、いつか、
一緒に生きてくれて、ありがとうって言えたらいいですね。
あなたのごめんねも、ありがとうも、
全部受け止めて、あの子に届けてくださる仏様。
あの子を救い、大事ないのちとして、そばにいてくださる仏様。
みんな、あなたの大切ないのちは、仏様のおそばですよ。
いつの日か、もう一度、あの子を抱きしめるその日まで。
大切に手を合わせていきましょうね。
質問者からのお礼
ご返答ありがとうございます。
母が亡くなった時も、父が亡くなった時も、いつも私を側で支え、見守り続けてくれた子です。
今は会えなくても、
話しかけている言葉は届いているのだと信じて、手を合わせ、これからも話しかけ続けようと思います。
でもそれは懺悔から感謝へ。そしていつかは思い出話に移行出来ていけたらいいなあと、
そう思えるようになりました。
いつの日かまた抱きしめた時には、
あの時は本当にごめんね。
至らない最低な飼い主でごめん。
こちらの世にいた時も、あの世に行った後も、ずっとずっとありがとう。愛してるよと、そう伝えようと思います。
ここまで生きてきて思うのは、
人生における最大の後悔は、愛を与えてもらった大切な人に、自分は十分な愛を与えてこなかった、返してこなかったと、それにつきると思います。
母や父を亡くした時、強くそう思ったにも関わらず、今回私はまた同じ過ちをおかしてしまいました。
繰り返さない為にも、毎日ルナ(飼い犬)や父母に手を合わせ感謝を伝えると共に、あともう一匹いる飼い犬に愛情を注ぐ事を、忘れずにいようと思います。
想いは届く。また会えるの2つで、
進むべき道が少し見えました。
本当にありがとうございました。