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自然災害が怖いです

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自然の脅威には逆らえないとわかっていますが、地震や自然災害が怖くてたまりません。
心配するあまり、日々の生活がおろそかになりそうです。

今、ここ、に集中するために、どうしたらよいでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

今を生きる 今に感謝する

えりっく様、初めまして。
お気持ちはよく解ります、というより「平成」の世は「災害」の世であるがゆえに誰でも心の奥に持つ感情ではないでしょうか?
雲仙岳噴火に始まり、奥尻島津波、阪神大震災、そして東日本大震災と矢継ぎ早に自然災害に見舞われて「平成」とはとても言えない世の中です。サリン事件や9.11.などの無差別テロを加えれば不安になって当たり前ではないでしょうか。
蓮如上人の有名なお言葉に
「朝(あした)には紅顔(こうがん)あって 夕べには白骨となれる身なり」
とあります。
朝元気そうな姿でも、夕方には骨になる・・・、無常なことです。
「今、ここに集中するために」は、フッと不安になるときに、
今を生きている、というより生かされている事への感謝を思うのです。
朝起きた時「無事目が覚めた、平穏な新たな朝が来た」事に感謝する。
一日を終えた時に「一日無事終わった、様々なご縁や良き事・悪い事があったが、また穏やかに眠りに入ることが出来る」事に感謝する。
お仏壇や神棚、神社・教会やお寺の本堂どこでも構いません、感謝の気持ちで対したらどうでしょう。
明日、というより次の瞬間何が起こるか判らない時代です。
「今生かされていること」をこころの奥底に常に持ち、一瞬一瞬を大切にする。
周辺への感謝のこころも忘れない。
あなたひとりではありません、みんな不安を抱えて生きています。
でも常にあなたを支える存在があることを、忘れないでください!

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おきもち

石川県金沢市内の城北地区鳴和町で浄土真宗本願寺派のお寺をお預かりしております。 過去の経験から、僧侶が聴聞の方々に一方的に話すだけの法話スタイルに疑問を感じ、悩んでる人・苦しんでいる人・勿論そうではないチョット仏教に興味がある人のお話しを聞き、対話する中でより良い方向を一緒に探す事を重要視しています。 お気軽にご相談下さい。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候・・」

えりっく様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

地震や自然災害・・確かに怖いですね・・拙生もそうでございました。

これでも過去に五年間ほど地震予知について考察を継続していたことがございます。

その時は、毎日、空を見ては地震雲が出ていないかと気になって仕方がありませんでした。

衛星画像や低気圧・台風の状況、あるいは電磁波・イオン濃度や宏観情報などをネットで収集したりと、とにかく予知してみせるのだとかなり意気込んでおりました・・実はナマズも飼ったりしまして・・

しかし、ある時から、大地震には必ず何らかの異常な前兆が複数現れるはずなので、それを確実に捉えれば、おおよその予知は可能だと思って、以後しばらく研究をやめてしまっていた矢先に・・東日本大震災が発生致しました・・

あの未曾有の大津波を引き起こした巨大地震・・

正直、全く予知できませんでした・・確かその直前にはマグニチュード6ぐらいの地震が三陸沖であったようには記憶しています。その時は、まあ、あの辺りはいつものことだから程度でスルーしてしまっていたように存じます・・

以来、もう地震予知について考察するのを諦めてしまいました・・というよりも、どこか虚しくなりました・・自然の脅威には逆らえない・・それを受け入れるのも必要なこと、無常の理趣を認めるべきだと。

もちろん、後々に後悔しないためにも防げることであるならば、防ぐことに努力するのは大切なことです。防災・減災にできる限り取り組むべきであります。しかし、どうにもならないことは、本当にどうにもならないのだと受け入れて諦めることも大切なことでございます。

良寛禅師は、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法にて候 かしこ」と述べられておられます。災難にあっても、しっかりとそれはそれとして現実を受けとめて、冷静にその時にできることをできる限りに対処していくことが肝要となります。いまだ起こってもいないことにあれこれと思い悩んでも詮無きこと、杞憂なることでしかありません。とにかく目の前の現実の一つ一つと真摯に向き合って、なすべきことをなしていかないといけないという次第でございます。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

テポドンが飛んできたらどうしますか。

_(._.)_
自然災害も含め人災もあります。今や時代は北朝鮮からノドン、テポドン、ハルマゲドンです。もしそれらが同時にとんで来たら、どうしますか?
答えは「その時になってからじゃないと分からない」です。
先日のミサイルは寝てる間に海にて、ボドンです。←ざぶとんプリーズ
まだ来ぬうちから、あれこれ考えても、いたずらに自分を苦しめるだけ。
切ったわけでもないのにナイフで自分の指を切ったらああ、痛いだろうか、どのくらい痛いだろうか、かなり痛いだろうか、チョー痛いだろうか、めっちゃ痛いだろうか、マジ痛いだろうか、ドエりゃ痛いだろうか、ぶち痛いかのう、と言っているようなものじゃけん。
安っぽい禅の本には「いま ここ」みたいなこと書いてありますが、本当の「いま・ここ」は、「いま ここ」なんて言葉もないんです。
いま ここ に集中しようなんてこともお捨てになることです。
眼も耳も、いまここに集中しようとしなくても、今ココの事しかありゃしませんし。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

心に寄り添う回答をいただき、ありがとうございました。
自分の恐怖が先にきていましたが、そうですよね、不安がない人はいないでしょうね。
人は生かされているんですね。恐怖を持つことよりも感謝をすることが大切ということを
改めて教えていただきました。
どうもありがとうございました。

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