遺伝性疾患との付き合い方
こんにちは。遺伝子診断や尊厳死について、考えたいです。
先日父が神経変性疾患の一種で入院しました。体が不自由になり、精神も壊れ暴言、暴力を振るうようになり、10年くらいで餓死、窒息、肺炎等で亡くなる病気です。
父は病状が進み暴力問題もあり入院となりました。父は車椅子に縛り付けられ(病気の性質上、ずっと付きっきりで見てあげられない病院では仕方のない処置です)罵声をあげていました。
この病気は何割かの確率で遺伝し、遺伝していた場合には100%発症します。この病気について、母は発症するまで伝える気がなかったのですが、1年ほど前に実家に遊びに行った時に父から告げられました。
その時私は結婚したばかりで、混乱しました。金銭的不安、パートナーにかける迷惑、人格がゆっくり変わっていって父のように暴言、罵声を毎日のように言うようになるかもしれない、それが病気との線引きが難しく治療法もないこと、子供を持てるかどうか、遺伝子診断をするかどうか。沢山の悩みが湧いて出てきました。
そして父の入院を目の当たりにして、ますます怖くなりました。
遺伝子診断をしたいのですが、母からは反対され、医療関係者も自殺の恐れなどあるので消極的です。
尊厳死についても考えますが、心配させるのでとても口にはできません。父も意識のはっきりしている時は寿命が長くたってなにもいいことはない、体も辛い、早く死にたいと言っていました。しかし当たり前ですがそんなことを言っても聞き入れられず、病人の危ない考えだと黙殺され、今父は病院で椅子かベッドで縛り付けられて苦しんでいると思います。退院できるかも分かりません。
遺伝子診断はして欲しくない、出生前診断は法的に認められてない、尊厳死もありえない。
病気の人の存在理由とかを考えすぎて、死はいけない、命の選別はいけない、そこから話が進んでいかないように思います。やさしい母ですが病気の話をすると目をそらして見ないフリをして生きろと言われている気がして憎いです。ついつい、この家に来ると落ち込む、とか嫌味な言葉を掛けてしまいます。それに怖くて目を晒せません。治療法がどんどん研究されている病気でもあり、積極的に関わっていくことで恐怖と付き合いたいです。
とりとめのない文章になってしまいすみません。尊厳死や遺伝子診断はなぜいけないのでしょうか。とても苦しいです。
不安が不安を呼ぶ 気持ちのコントロールが下手くそ
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
リアルな話
【延命治療】【尊厳死】【出生前診断】・・・等々、社会では倫理的問題や宗教的問題など、昔から様々な角度からありとあらゆる議論がなされていますが、それがいざ当事者ともなれば心中複雑なものがありますよね。
例えば、外国には【安楽死】が認められているところもあるようです。「人為的に人命を奪うなど言語道断だ!!」と私も強く思っていたのですが、例えば重度の肺気腫の患者が安楽死していったケースを知り、喘息の既往歴があり、呼吸できない苦しみをいささか知っている私には、問答無用に安楽死を否定することができなくなってしまいました。
申し訳ございませんが、あなたの疑問には明確な返答ができそうもありません。しかしながら、病気の人のみならず健康な者も含めたすべての人に、一般的な「存在理由」などというものはなく、そこにどんな意味づけをするのかは当人次第である、ということは言えると思います。
とても難しい問題です…
そのようなご病気があるのですね。心中お察しするに余りありますが、微力ながら共に考えさせていただきます。
あらゆる問題を仏教にあてはめて考える事は適切ではないのですが、仏教の視点から考えてみたいと思います。
尊厳死や遺伝子診断はなぜいけないかとのことですが、良いか悪いかという是非について仏教としては判断しないというのが基本的なスタンスであると思います。
生死の問題は人知を超えた問題であり、判断した以上は取り返しのつかない問題でもあります。
そうした問いにおいて人間が人間の判断を絶対的に信頼すべきではないということは戦争や原爆などの歴史が物語るものでもありましょう。
それはけして問題から目を伏せるということではありません。問題に答えを出してしまいそれに固執するのでなく、問題を問題として抱えていくということのように思います。
お釈迦様の弟子には病による強い痛みに苛まれ自死に至ったヴァッカリという方がいます。ヴァッカリからの問いかけに対し、お釈迦様が自死を肯定しているようにも解釈できなくはないのですが、それは単純な肯定でなく、やはり自死の是非について価値判断は避け、ヴァッカリが身の無常について覚り、執着を離れているかどうか、つまりは仏教の説く真理の体得を中心の問題とした上でヴァッカリの死を受け入れているということでしょう。結果的にヴァッカリは自死しますが仏教の究極の目標である涅槃に入るのです。
さて、仏教は一切の生きとし生けるものの救済を説く教えです。ヴァッカリも自死により救われたのでなく生きている間に教えによって救われたのです。
お父様にはお父様の救い、あなたにはあなたの救いがあるはずです。お父様にとってのお父様の救いと、あなたにとってのお父様の救いは同じようで別の問題です。
お父様の病気がなかったならばあなたとお母様の関係が悪化することはなかったでしょうか。けして断言はできませんがそうであるとは言えないものです。病気はあくまでも縁(間接的原因)であって、因(直接的原因)は私たちが内に抱える煩悩、つまりは思い通りにしたいという心です。
尊厳死とはいってもその死に関わるあらゆる人にも尊厳があります。手を下す人が必要です。遺伝子診断についても知ってしまったら知る前には戻れません。
そうした問題に人知で適切な判断を全体として下すことは難しいのかもしれません。
質問者からのお礼
答えにくい質問に真摯にお答えをくださりありがとうございます。気持ちが落ち着きました。仏教にいい悪いも存在理由も無いのですね。自己責任ってことになるんでしょうか。結論にに固執せず、考えるのはまだ難しいですが、言葉を覚えておきたいと思います。
私の意見を見て傷つく方もいらっしゃるかもしれませんが、わがままに今の気持ちをそのまま書かせていただきました。
キリスト教では受精時点から命であり、自死・殺人は罪だったと思います。しかし個人の意思の尊重から、自由の大きい国も中にはあるようです。日本はこれからどうなっていくのでしょうか。人間の何万年の歴史に比べ、ここ100〜200年は非常に恵まれていると思います。オオカミに食べられないし、治せる病気も増えました。その中で今まで想像がつかなかったような新たな問題が出てきます。
日本人ひとりひとり、時間のある時でいいので、賛成、反対どちらの意見も聞き、自分の気持ちをよく見て、自分ならどうするか、身近な人に何と言うか考えて欲しいと思っています。
ありがとうございました。