二つの疑問
こんにちは。僕は浄土真宗を学ばせてもらっている者です。
二つの疑問があるのですが、お答えいただけると有難いです。
1,僕はよく称えたいと思った時に「なんまんだぶつ(そのまま救うぞ)」と呼び掛けてくださる阿弥陀仏のお声を聞き、「なんまんだぶつ(ありがとうございます)」と御恩報謝のお念仏を称えさせていただいていますが、浄土真宗のお坊さんは浄土宗のように朝(晩)何分と決めてお念仏を称えているのですか?
2,「考えない練習」などの著者の、元浄土真宗本願寺派のお坊さんであった小池龍之介さんという方がいるのですが、その方はヴィパッサナー瞑想を行ったことにより、僧籍を剥奪されたようなのですが、どう思いますか?
僕自身、hspという気質をもっていて、ストレス解消を目的として瞑想を行っているのです。呼吸や自律神経も安定し、とても素晴らしいと思うのですが、瞑想=自力であり、阿弥陀仏を疑っている、即ち「救われない」という思考になる方々がいるようです。
こういう方々は本願を聞き間違えているように思うのです。
瞑想を行えば救われないのではなく、「瞑想を行えば救われない」と考えるのが自力だと僕は理解しています。
阿弥陀仏の本願は「報恩念仏を称える者を救う」というものですよね。「瞑想を行えば救われない」なんて一言も書いていませんし、本願の内容を勝手に書き換えてしまっているのが問題だと思うのです。
正直僕が瞑想をしていることもあり、自分の行動を正当化したいという気持ちがあるのも事実ですが、瞑想を行うだけで僧籍を剥奪されるのかと、心底驚いて質問させていただきました。
二つ目の疑問が強調してしまいましたが、一つ目の疑問もとても重要なので、回答していただけると有難いです。
HSP気質で生きづらく、人目を気にするあまりすごく不器用な人間です。 しかしデメリットばかりではなく、生きづらいからこそ、生きづらさを解消するために色んな本に手を出しましたし、仏教に出会うことができました。 人生において様々な悩み事があり、お坊さんのご意見やアドバイスをいただきたいと思いました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
称名報恩と信心正因
こんにちは。
幾度もご縁がありますね。
お念仏の日々にあられるようで、何よりです。
1・浄土真宗のお坊さんは浄土宗のように朝(晩)何分と決めてお念仏を称えているのですか?
お念仏はお勤め中のお念仏もあれば、日常ふとした時に独り言のようにお称えさせて頂く場合もあります。その意味では、時は不定期であるし、時間として定量ではないと思います(実際何分と計ったことはありませんが)。
2・「考えない練習」などの著者の、元浄土真宗本願寺派のお坊さんであった小池龍之介さんという方がいるのですが、その方はヴィパッサナー瞑想を行ったことにより、僧籍を剥奪されたようなのですが、どう思いますか?
当該のお方の存在は知っていますが、その主張されていることは詳しく存じません。また、ここでは他宗派、他団体(現在は本願寺派に所属でない)の人についてコメントすることは出来ませんし、するつもりもありません。
よって、あなたの考え方についてに限って回答をしたいと思います。
あなたの言われているように、「ストレス解消を目的」とした瞑想をするからといって、救われないということはありません。ただ、それが往生成仏のための助けになる、一因になると考えるとこれは誤りになります(瞑想=自力という考え方はこれに相当します)。それは雑行雑修になるからです。
あくまで信心正因である、という根本さえ押さえておけば間違いないということだと私は思います。
参考になりましたら。
南無阿弥陀仏
ご相談拝読しました。
質問1:お念仏申す時間について
特に定めてはいません。お勤めの中でももちろんしますが、私が一番するのは悪いことをした時です。妻と喧嘩した後とか、よからぬことを考えた時とかね…。あとは聞法思惟している時もしますかねえ。
質問2:瞑想と浄土真宗における救いについて
これは語ろうとするとけっこう難しい問題かもしれません。僧籍剥奪云々については他派であり詳しい事情も知らないので言及は避けるべきですが、一人の求道者として何をするのかということと、その宗派の看板を背負った僧侶として表立って何を説くかというのは違うかもしれませんね。
仏教の修行というのは基本的には瞑想(止観)なわけでしょう。仏陀釈尊は快楽も苦行も捨てて瞑想で覚ったわけですから。
ところが浄土真宗ではそれをしない。それはひとえに親鸞聖人のご苦労があったわけですが、親鸞聖人だって比叡山における20年間の修行・修学で瞑想には取り組んだはずです。それで自力に破れ本願念仏の仏道を開顕していかれるわけですが、私たちはそこにあぐらをかいて自ら確かめようとしないという側面もあるのかもしれません。
かといってその確かめも本願疑惑と紙一重というか、そちらに傾くものではあるので悩ましいですね。しかし斉木さんは一人の求道者ですから自由に道を求めたらよいと思いますよ。
無理やり報恩感謝に自分を押し込める必要はありません。
全ては南無阿弥陀仏への引入の要門ですから。
あくまでも参考としてお聞きください
斉木さん。浄土真宗の教えに出遇い、瞑想を実践されているのですね。そして①お念仏するタイミングはいつか②浄土真宗において瞑想はタブーか、の二つの疑問をお持ちということ。浄土真宗本願寺派の僧侶として、参考になればと私見を述べさせていただきます。
①お念仏のタイミングについて…阿弥陀仏は、誰にでもできる行として念仏を選び取られた、と私は受けとめさせていただいているので、できるときにはいつでもどこでも声に出したり出さなかったりと自由に念仏させてもらっています。朝夕のルーティーンとしてのお勤めの際にも念仏申しているので、定期的に念仏申しているとも言えますね。
②瞑想はタブーか…小池さんの僧籍はく奪に関しては、よく存じ上げていないので、言及しませんが、瞑想についてですね。浄土真宗を学び実践するうえでの私のスタンスについてお話しします。斉木さんのおっしゃるとおり、聖教に記載のない事項について過剰に反応する必要はないと思います。しかし、聖教に記載されていないということは「敢えてお勧めはされていない事項」だともいえますね。浄土真宗のお聖教に記載されていることは、「阿弥陀仏の浄土に往生する仕組み」が記載されているのであって、それを我が事として実践することにより信仰生活が始まるのでしょう。大切なのは「阿弥陀仏の浄土に往生する者の上に展開する行為が念仏」ということを心得ているかどうか、だと思います。
私は瞑想はしていませんがサウナと水中ウォーキングに通ったり、早寝早起きを心掛けています。これは、体と心を整え、仕事(法人経営)において高いパフォーマンスを発揮するためです。そしてベースには、主体的に日常生活を充実させたい、という想いがあります。そのうち、瞑想やヨガも始めるかもしれません。しかし、それは浄土真宗の教えの実践としてではなく、あくまでも健康維持・トレーニングの一環としてですね。
以上が私の考えです。参考程度に受け止めていただけたらと思います。
質問者からのお礼
釋悠水様、回答ありがとうございます。幾度もご縁があって嬉しく思います。実は随分「真宗で救われるのか」と迷ったものですが、阿弥陀仏の摂取不捨の力で現在お念仏申しております。呪いのような摂取不捨です。
1,なるほど。浄土宗のように1時間とかお念仏はしないですよね。僕には1時間もお念仏申す集中力がないので、良かったです。やはり自然と出てくるお念仏が一番、ということですね。
2,......そういう風な事情があったとは知らず、本名を出してしまい、申し訳ありません。
瞑想は 「目的」がストレス解消なら問題はないということですよね。いやー、良かったです。15分程度の瞑想なら修行っぽくないですから、大丈夫ですよね。瞑想も生活を正すのにはすごく素晴らしい。
回答ありがとうございました。
吉武さん、前回に引き続き回答してくださり、ありがとうございます。
1,悪いことをしてしまった時、というのがとても共感できます!僕も自分中心のあさましい思考、感情が発生した時に、「そのままでいい」という阿弥陀仏のお声を聞かせていただき、歓喜しつつ、改心するようにしています。お念仏の有り難さがようやく分かるようになりました。
2,やはり、難しい問題ですよね。僕は浄土真宗の教え以外には道はないと思っています。ただ、他宗教の場合は瞑想などにより、自然と健康を保てるような行をするのに対し、浄土真宗では精神統一をしないので、たまに精神状態が不安定になってしまうので、とても悩んでいます。現在では瞑想(マインドフルネス)は結構一般人の方も実践しているようです。あくまで一般人としてマインドフルネスを実践していこうかと考えています。回答ありがとうございました。
西原慎治様、回答ありがとうございます。
1,なるほど。やはり皆さん定期的にお念仏を称えているのですね。いつでもどこでも自由に称えている、ということですね。
2,健康を目的としてなら、大丈夫ですよね。もちろん、浄土真宗の教義を中心に生活していきます。
そうか......。そういえば僕はヨガもやっています。ヨガも一応仏教の修行法でしたよね。ヨガにも瞑想というものがあり、ヨガを始めれば必然的に瞑想もやることになります。ヨガや瞑想は修行法でもありますが、健康法として最高のものだと思い、僕も行っていました。
まあ、健康を目的としてるなら全く問題ないはずですから、お念仏称えつつ、行っていこうと思います。