阿弥陀様を信じる者の坐禅とは
hasunohaの僧侶の皆様方、こちらで幾度か質問させていただいておりまするると申します。
プロフィールに記載しておりますように、私はうつ病再発予防のために現在も服薬を続けております。
治療を続ける中で自分の心の問題を薬に頼り切りにせず、自身で調和が保てるようになりたいと思い坐禅を始めました。
坐禅の習慣を続けていくにつれて以前より確実にパニックや不安に陥る頻度が減り、日々を落ち着いて過ごせるようになりました。
また坐禅をしている際に、自らの内に湧いた雑念を冷静に見つめてその雑念から離れる瞬間を幾度か体験し、とても安らかな気持ちになれました。
そして、道元禅師の「ただ坐禅に打ち込む姿にこそ仏がある」という教えを、ほんの片鱗ですが理解できるようになりました。
ただ私は過去の質問で相談いたしましたが、何があっても我が身を救ってくださる阿弥陀様の教えも信条の根っこに抱いており、阿弥陀様の優しさが好きです。
坐禅をする者を阿弥陀様はどう見ていらっしゃるんでしょうか。
逆に、阿弥陀様を信じる者が坐禅をして悟れるのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
王いま座禅してただまさに念仏すべし。『教行信証』「行巻」
坐禅をする者を阿弥陀様はどう見ていらっしゃるんでしょうか"
結構なことだと喜んでいらっしゃるのではないでしょうか。
"阿弥陀様を信じる者が坐禅をして悟れるのでしょうか"
『淨土五會念佛略法事儀讃』(法照・著)
『五会法事讃略抄』(親鸞・著)
というお書物には、念仏は座禅して唱えることが前提として論ぜられています。しかし、残念なことに東西本願寺にかぎらず浄土真宗の系譜では、すっかり黙殺され、すでに失伝してしまいました。
余談ですが、
「阿弥陀仏を信じるものは座禅などしてなはならない」という大きな大きな誤解が僧俗諸共に蔓延している事、私はいつも残念に思っています。たしかに<極楽浄土に往生する>には【称名念仏】以外はあり得ません。しかも【行住坐臥不問時節久近】といって、唱えるスタイルやタイミングは一切問われません。しかし、世の中と調和して、よりよく生きていくためには、様々な知識や技能、教養、常識、倫理道徳、法と秩序、お金…等々、いろんなものが必要です。
あなたの場合は、少なくとも道元禅師の座禅で精神疾患が軽減されるという【真功】が実際にあったわけです。どうか余計な心配はなさらず、座禅修行も阿弥陀信仰も両方とも続けていってください。それが遠回りになるのか近道になるのかは一概に言えないかもしれませんが、あなたは確実に【悟り】の方向に向かっていますので。
質問者からのお礼
転落院様、お返事をくださり誠にありがとうございます。
祖師の説かれた教えを引いて坐禅修行も阿弥陀様への信仰も続けなさいとのお言葉、着実に悟りへ歩んでいるとのお言葉に安心を得られました。
わたしの心に静かな安らぎを与えてくださる坐禅と阿弥陀様を常に忘れず、引き続き精進いたします。
この度は教えをくださりありがとうございました。