母を失ってから
以前もご相談させていただきました。
7/1にくも膜下で入院していた母が亡くなりました。
葬儀も済み、お寺で戒名も頂き、今週から仕事にも復帰しました。
これまで昼夜を問わずたくさん泣きました。今でも朝早く目が覚めて、そこから母のことを思い出して寝られなくなります。
私は一人っ子で悲しみをこらえなんとか喪主も務めました。
でも少しずつですが、落ち着きを取り戻しつつあります。
今までは悲しんでばかりでしたが、最近は母を悲しませないために、自分は笑って幸せでいようと思い直し、子どもと一緒に楽しく過ごすことを考えるようになりました。
しかし、少し前向きになるとともに、生前の母の気持ちを考えることが増え、辛くなることが多々あります。
母は3月で仕事を満期まで勤め上げ、その後は生き甲斐として小学生の孫の面倒を見たいと、毎日ご飯を作りに来てくれていました。
今年の夏休みには旅行も一緒に行こうと楽しみにしていました。
友達も多く、仲良しグループでよくお出かけもしていました。
今年に入ってから私達と一緒に暮らしたいという話もしていました。
仕事が終わり、孫の面倒を見つつ、やっとこれから遊ぶんだ
という矢先に逝ってしまい、無念で無念で可哀そうでなりません。
心が痛くなります。
本人も、どうして?なんで私が?
と思っているんじゃないかと思うと、さらに苦しくなります。
母は自分が亡くなったことに気付いているのでしょうか?
また、自分の身に起きたことを理解し、受け入れているのでしょうか。。
私に孫に対してとても心配性だった母。
今頃どこかからハラハラと私達のことを見つめているのでしょうか…
亡くなったことを悲観して嘆いているのではないかとまた苦しくなってしまいます…
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
なくならないもの
前回のご相談とあわせて拝読しました。お母様のご命終に謹んでお悔やみ申し上げます。
かけがえのない最愛のお母様だったのですね。悲しみは尽きねども、姿形を超えてあなたと共にあるお母様とこれからも生きて参りましょう。
さて、亡きお母様は今どうしているのか?どこにいるのか?死を自覚しているのか?理解し受け入れているのか?
様々な疑問が次から次と浮かぶことと思います。亡き人について私たちが考える時、実は二つのカテゴリがあります。
①亡き人自身の問題
②“私にとって”の亡き人という問題
です。①については残念ながら確かめることはできません。死後について説く様々な言説から推測することはできだとしても、結局は「わからない」という壁を超えることはできません。
しかし残された私たちは亡き人の事を心配したりと様々な思いを懐きます。「わからない」はずの問題について色々と考えるのです。それは亡き人との関係が深ければ深いほど強くなるものでしょう。
これは実は②について私たちは考えているのです。「私にとって」という一点を外さない時、もう亡き人は私を離れては存在しないことに気がつきます。
亡き人が苦しいのは私が苦しいから、亡き人が悲しいのは私が悲しいから。もう私と常に共にあるのです。
これはあくまでも②の問題ですから、けして亡き人が霊となってそばをさ迷っているとか、死後空間である天国で見守っているが降りてくるとかいうことではありません。
亡き人はただ「死」という事実を私に見せてくれただけなのです。しかしその事実があまりに大きいから、私たちはそこから沢山の促しやはたらきかけを受けるのです。
いつか私たちも死ななければなりません。ですが死してもなお共にある亡き人の姿から学ぶならば死んで終わらない「いのち」を私は生きているのだという事実をいただくことができます。それがお母様があなたに伝えたいことでしょう。
姿形のあるお母様を失っても、失うだけではない何かがある。苦しい時は苦しいままに、寂しい時は寂しいままに。
それもお母様からの大切な促しだといただければ苦しさが苦しさのままではなくなるのではないでしょうか。