死に目に会えませんでした。
去年7月に主人をガンで亡くしました。
亡くなる前・前日に主人が病院に来て欲しいと言っています!と看護師サンに言われ病院へ・・・
その時には危ないとも言われなかったのでその日には娘と一緒に汽車で帰りました!
そして、次の朝5時に看護師サンから呼吸が浅くなってますと言われましたが、汽車がなく7時の汽車で行きましたがもう息をしてないと看護師サンから告げられ、娘と昨日なんで帰ってしまったんだと後悔しています(TT)
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そういうケースは意外と多いと思います
この度は御愁傷様です。大切な方をなくされた悲しみが癒えるには、どうしても時間がかかります。
お医者さん方は「余命何日」と入院患者の御家族に告げることはありますが、告げられた日数の通りに旅立たれる場合もありますが、むしろ宣告された余命よりも早い立立ちとなる場合も有りますし、医師の予想をはるかに超えて余命の時を過ごされる場合もあります。
入院患者の様態が悪化すると、病院から連絡があります。いわゆる危篤です。危篤の報を受けて、家族が病院に駆けつけたが、何とか持ち直した。その後、また危篤となり、家族が呼び集った。すると、また危篤状態を脱した。2年間で、そういうことが5回ぐらいあって、6回目の危篤で亡くなった。ご遺族から、そういう話を聞いたことがあります。
危篤だからと呼ばれ病院に行ったけれど、医師から「容体が落ち着きました。」と言われので、一安心。一旦、帰宅したら、病院から「お亡くなりになりました。」という電話があった。という話は結構聞きました。以前の話ですが、私の義母は父親の看病のため、仙台から札幌に行き一週間病院に通い看病していました。担当医から「ここのところ病状に変化が無く、落ち着いた状態です。」と言われ、一旦仙台に戻ってきました。義母が空港から自宅に着いた時、札幌の病院から「お亡くなりになりました。」という電話がありました。
檀家さんが亡くなった場合でも、同じような話を結構聞きます。よく世間では「親の死に目に会えない」ことをとても悪いことかのように言う方が居ます。それはご遺族を鞭打つような言葉であります。しかも、さしたる根拠があるとは言えません。
ずうっと看病してあげたい。側についていてあげたい。そう思っても、人はそれぞれの立場でそれぞれの場所で生活をしていますので、現実にはかなわない場合も多いと思います。気にする必要は無いと言っても、気にはなると思います。
しかし、今やるべきことは御臨終の場に立ち会えなかったことを悔やむことではないと思います。故人の為に一生懸命御供養し、故人が安心して見守ることが出来るよう日々の生活を頑張ることです。悲しんであげることも大事ですが、時には涙をこらえ歯を食いしばることも大事ですし、故人に笑顔を見せることも、力強く前に進む姿を見せることも。大事です。
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
まだ、多分思い続けると思いますが、少しだけ心は楽に少しなりました。
ありがとうございます。
これから、笑っていたいと思います。