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子供のいない人の死後について

回答数回答 3
有り難し有り難し 48

ここ最近hasunohaの問答を読ませていただき、何とか心を保っております。ありがとうございます。

さて私には50代で子供がいません。子孫がいないため、将来の世代から、先祖と呼ばれることは、ありません。
そのため先祖として供養されることはありません。
死後の話まで、心配しても仕方ないですが、
子孫のいる人といない人で死後に差があるのでしょうか?

今さら何もできないかもしれませんが、何ともやるせない気持ちです。また同じような境遇の人がどうなるか気にかかります。

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

有無を超える

ご相談拝読しました。

子どもがいないことから先祖供養をしてもらえないため死後に不安があるのですね。子どもがいて先祖供養をしてもらえる人と何か違いがあるのか疑問なのですね。

50代という事でこれまでを振り返り、また残された先のことを考える中で湧いてきた切なる思いであるとお察しします。その疑問や不安は「死後について」という形を取ってはいますが、実はあなたが生きている今についての疑問や不安なのではないでしょうか。

自分というものは一体何のために生まれ、何のために生きてきたのか。私の人生はこれで良かったのだろうか…そんな思いがあるのではないでしょうか。

子どもがいれば自分が死んでも何か残るものとして明確さが感じられるかもしれません。子どもという存在、あるいは子どもに伝えた事というのが残っていくことに一定の満足があるのかもしれません。

でもその残るというのは誰にとって残るのか。何が残ろうと、この「私」は死んでいかねばなりません。財産も地位も名誉も家族も功績も何ひとつ持ってはいけません。そこには実は子どもの有無は関係ないのです。私にとって残るものはないのです。残ったところに私はいないのですから。

お釈迦様は死後についてこうなるということは具体的に明確にはお説きになっていないように思われます。そうした疑問は答えの出ないものとして退けるのが基本的なスタンスです。
一方で、死後に変わらない何かが永遠に残る(常見)、逆に死後は何もない無である(断見)とするのはどちらも偏った誤りのある見方であるとされています。そうした有るとか無いとかいう迷いを超えるのが仏教の教えです。

では、それは死後についてだけでしょうか。今、あなたや私は有るのでしょうか?「これが私だ」と言える何かが有るのでしょうか?

それは心臓でしょうか?脳でしょうか?記憶でしょうか?そのようによく吟味して考えていくと何も「これが私だ」と言えるものは無い事がわかります。それならば元々無いものがどうしてなくなることができるでしょうか。

子どもの有無、つまりは死後の供養の有無で自分を推し量るのでなく、今ここで仏教の教えに私とは何かを学んでいきませんか?50代ということでとても良いタイミングではないかと思います。

是非これからもhasunohaにご質問ください。お待ちしております。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

死後に差は無いのが仏教です。

亡くなったら
皆お浄土で成仏するだけです。
死に様や環境状況が違えども
そういうものは全く無関係で
仏さまは平等にお救いくださいます。

拙寺の場合は
他に身寄りのない方や
家が絶えてしまった方は
合同墓にてお寺が御供養いたします。
私も同じ合同墓に入りますが
同じお浄土に往く者同士として
「俱会一処」として
永代供養いたします。

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有り難し
おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

世の中の実相をよくよく勘案すると。。

私達の身体は、死後斎場で焼かれて、水分は蒸発し一部の骨と灰が残ります。
一方、蒸発した水分は、空中の水分や水蒸気や雲になり、雨や雪となって大地や川や海になり、地球上のありとあらゆるものの素子となります。我々が飲むコップ一杯の水や、食べる肉や野菜も元をただせば我々のご先祖の一部とも言えます。
今朝食べた朝食は、食べた時から我々の身体の一部となり人間に生まれ変わります。 それでは、我々が生きていた時に経験した記憶や意識はどこに行くのでしょうか?と思いますよね。 それは「阿頼耶識」という一種の「蔵」に行くというか戻ると言えるでしょう。コンピューターで言う「クラウド」みたいなもんでしょうか。。「倶会一処」は「阿頼耶識」での再会です。すなわちお気付きと思いますが、我々は一体一如ではと思います。現に貴方は50年もご飯を食べ続けています。あらゆる「食」を通じた縁起があなたの身体を形成しているのです。
スマホをお持ちだと思いますが、貴方がGoogle検索した記録データは、デジタルデータとして500年後もGoogleのクラウドに残っているでしょう。。そんな感じではないでしょうか。。
子孫がいなくても、あなたの身体の水分の一滴が地球にばら撒かれています。その縁起でもって成立している生命体が無数にあるという理解です。
「人類みな兄弟」という標語がありましたが、同じことを指しているのではと思います。
「阿頼耶識」の事を我々の業界用語で「お浄土」「仏性」「涅槃」「阿弥陀仏」「一如」「無我」等と表現したりします。

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有り難し
おきもち

東京在住の浄土真宗本願寺派の僧侶・前住職です。仏教は、私たち生きとし生ける者すべてが「仏になる」(お悟りをひらく)教えです。一般の方にもわかり易いように答えて参りたいと思います。合掌

質問者からのお礼

吉武文法様

ご回答ありがとうございます。
ご回答にある「生きている今についての疑問や不安なのではないでしょうか。」「私の人生はこれで良かったのだろうか」問言葉に、心中を見透かされたようでドキッとしました。
また、血筋が残せないという思いが今までありましたので、ご回答を読んで少しすっきりしました。(もっと理解が進めばと思いますが。)
「私」についても今まで考えたことがなく、今後、仏教の教えに学び「私」とはを学んでいきたいと思います。

今まで長い間自分を振り返ることもなく、宗教的なことも軽んじてきました。しかし最近になっていろいろな疑問や不安が浮かんできております。
そこでhasunohaに出会いました。

和田隆恩様

ご回答ありがとうございます。
分け隔てなく平等にお救いいただけるということで、「差がある」ことにこだわってきた(自分と他人をずっと比較してきた)ことに恥じ入ります。
「俱会一処」という言葉をネットで調べました。墓石に書かれているとのことで、その意味を知りました。

宮武様、和田様にご回答いただいたことに感謝するとともに、このご縁を与えていただいたhasunohaの運営の皆様にも感謝します。

今後ともよろしくお願いします。

久念様

ご回答いただきありがとうございます。
肉体については、誰の先祖ということなくみんな分け隔てなく我々の身体の一部であり、
血筋を残す残さないことにこだわるのはナンセンスということなのかなと理解しました。
阿頼耶識という言葉は初めて聞きました。意識もまた一つになるということでしょうか。阿頼耶識の理解は時間がかかりそうなので勉強したいと思います。(理解が違えばご指摘ください。)

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