過去の過ち 向き合い方
初めて質問させていただきます。
現在10代の者です。
私は、小学生の頃お店から売り物のシールを盗んでしまいました。お店の人は知らないと思います。その他にも、友達の物を盗んでしまったり友達を傷つけてしまったこともあります。この他にも、やっては行けないことをしてしまいました。こんなにも、罪を犯してしまった私はこの先どうすれば良いでしょうか。考えれば考えるほど、分からなくなってしまいます。
また、私にはもったいないくらい私を大切に思ってくれる友達や家族が居ます。
こんな私が、幸せに過ごしていて良いのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
夜道を照らす月の光を思い浮かべて
りんごさん、お早うございます。
目を閉じて、「墨をこぼしたような真っ暗な夜空に煌々と輝く月の光」を思い浮かべてみてください。夜空は、私たちの抱える悲しみや苦しみ・罪深さ、そして煩悩を現します。真っ暗なはずの夜道、そこに月の光が届くことでりんごさんは自分の人生を歩むことが出来ます。その月の光は、阿弥陀仏の慈悲の光です。
闇と光は一見矛盾するようで、同時に存在していますね。私たち人間の生活は、大変複雑なものです。表だけの紙が存在しないように、喜びだけの人生・楽しいだけの人生・嬉しいだけの人生は存在しません。誰にも言えない矛盾(=懺悔と歓喜)を抱えながら、私たち一人一人は生きています。その矛盾を裁くのが仏教ではありません。その矛盾を全て知り尽くしたうえで、それでもなお照らし、導き、救おうと働いている阿弥陀仏が存在することを、どうぞいつでも思い出してください。
『涅槃経』というお経の中に、「罪に対して痛みを感じ、罪を犯したことを羞恥(しゅうち)する心が慙愧(ざんぎ)です。慙愧がなければ、人と呼ぶことはできない」と説かれてあります。「誰かを傷つけることは確かに問題です。また、傷つけまいと思っていても、傷つけてしまうこともあります。しかし、そのことをどう受け止めているのか、これはもっと大きな問題です。慙愧においてはじめて人を人として敬うことが成り立つのです。慙愧の心がなければ、人間関係を生きていながらも相手を人として見ることができません。慙愧によって人と人との間を生きる、文字通り「人間」たらしめられるのです。」と説かれています。(一節を抜き出してわかりやすくお伝えしました。)
りんごさんが誰にも言えなかった自分の罪に、しっかりと目を向けて告白できたことはとても尊いことです。かつ、多くの人に支えられている幸せを感じ取れていることは、素晴らしいことです。その幸せや喜びを心の栄養にして、自他を大切にする日々を重ねてくださいね。これからも応援しています。
自分を好きになることです
初めまして。お悩み読ませて頂きました。
まず、過去にしてしまったこと。それはもう変えられません。悪いことをすると、罪悪感で苦しむでしょう?自分自身が嫌になるでしょう?なので、もう二度としない、と心に決め、前を向いて生きましょう。
勿体ないくらいにあなたを大切に想ってくれる人が周りにいるなら、あなたもその人達を大切にしなくちゃいけない。それは、あなたがあなた自身を大切にすることです。あなたが自分を嫌っていると知ったら、皆悲しむと思いますよ?
お釈迦様はね、何もいつも難しいことを言ってるのではないんですよ。「善いことをして、悪いことをやめなさい」と言ってます。
これからの生き方が大切です。
お釈迦様の言葉を実践してみて下さい。きっと自分を大好きになれますよ。
応援してます!
質問者からのお礼
とても、素敵なお言葉をありがとうございました。
これからは、周りの方々をより一層大切にし、そして自分と向き合い精一杯生きていけるよう頑張ります。
本当にありがとうございました。