私は過去、人間関係で大きな失敗をしました。過ちと言ったほうが適切かもしれません。そのことについては反省し、もう二度としないように気をつけています。
ここ半年ほど、その過ちのことで気分が憂鬱になったり、不安になったりしています。
このことを他の方に相談してみたところ、「そこまで気にすることじゃない
」「自分のことを最低と言うほどのことじゃない」「前向きに生きて」と涙が出るほど優しい言葉をいただきましたが、やっぱりそうは思えません。
これも償いのうちだと耐えています。ここで死を選ぶのはあまりにも無責任ですし、これから前向きに、精一杯生きることも償いだと考えて、懺悔を試してみたりといろいろなことをやっていますが、やっぱり死にたい気持ちが出てしまいます。
私は生きていちゃダメなんじゃないだろうか、と考え、死にたいと考えてしまうのです。
また、幸せを感じるたび、私は幸せになっちゃいけないんじゃないか、と考えてしまいます。
これから私の過ちのせいですごく大きな不幸が家族にくるんじゃないかとも不安です。
私はどうなってもいいから、家族だけは幸せでいて欲しいです。
ですが、正直に言うと、できれば私はやっと本当にやりたいことを見つけることができて、これから人生を楽しみたいです。でも私は楽しんだり幸せにはなれないだろうと悲しくなります。私はそんなことを望んではいけないんだと考えてしまいます。
ある方に、「自分を許すことを学びなさい」と言われ、自分でもいろいろと調べているのですが、自分を許すってどうすればいいのか分かりません。セルフコンパッションなどを勉強していますが…。
私は今、中学生で児童精神科に通っていますが、私はこの病気を治してはいけないのではないか、元気になってはいけないのではないかと考え、治療に消極的になってしまいます。
まとまりのない文章で申し訳ございません。いろいろと自分の思いを書かせてもらいましたが、何かアドバイスをいただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
拝
度々不幸を感じ苦しむ
そして、未来も同じように繰り返すのでは無いのかという不安にも駆られるようになってしまう
この問題を深く理解する為には
不幸を感じるまでの過程を自分でよくと観察する必要があります。
まず、人は常に何か問題と出会い
なんとか問題を解決するという過程を繰り返します。
例えば「雨が降っていたから傘をさす」という簡単な事も良い例です。
しかし、不幸感から脱せない時というのは問題に対して解決の方法を見出せなくなっています。
やがていつまでも、問題を解決出来ない自分に対して否定的感情を持つようになります。
そうした片付けられない悩みが蓄積し精神的にも追い詰められていきます。
しかも繰り返し同じ問題に問題解決の為の行動が伴わない不効率な時間を費やし脳が疲れていきます。
ここまで来ると、よもやこの思考的作業の繰り返しが不幸感を己に呼び込みます。
当然不幸は感じる物で実在する物ではありません。
幸せは何かを得る時に生まれる喜び
不幸は何かをなくした時に生まれる悲しみや怒りであり、ただの感情です。
しかし人は先のような思考パターンに溺れる事で自分をどんどん不幸に貶めます。
しかし、この思考パターンを変える事は可能です。
いいですか?
思考の主は自分です
魔が刺しその思考パターンが始まる時に、いよいよそのつまらない考えを巡らせようとしている愚かな自分に油断してはなりません。
その先にあるのは堂々巡りであり問題を解決する事はまず望めません。
そんな時はその思考の主人公になるのではなく悩んでいる自分を冷静に見つめるもう一人の自分を意識して生み出す必要があります。
その、もう一人の自分で「やれやれまた馬鹿な事を考え始めた」と思わせ
自分の意識をそちらの大人な人格に合わせる事に集中します。
大人な人格には馬鹿な自分に構っている暇など無いのです。
そしたら、やりたい事にそのつまらなくなるはずだった時間を使えれば、エネルギーは更に有効に使えるのは間違え無いのです。
苦しみは自我の認識から生まれます
自分で「自分はこういう人間である」と思い込む事は苦しみの思考に他なりません。
人は誰しも「賢い人格」を自らの正しい思考と選択と行動で生み出す力を持っています。
ただ注意深く賢い人格の言葉を繋いで行く事です。
この賢い人格を仏性と申します。
合掌