愛犬を殺してしまった?
小学生の頃から12年間
飼っていた犬がいました。
その犬が、ある日の夕方土砂降りに
うたれ小屋にも入らず外にいたので
おかしいと思い玄関に入れると、
しばらく経ってから下痢と嘔吐を
し始めました。
既に動物病院は閉まっていて、
自分の住んでいる所で
夜間動物病院は1件しかありません。
その病院は他の病院の倍額以上
支払わなければならないため、
翌日の朝イチでかかりつけの病院に
行くことにしました。
ネットで調べた情報で、
下痢や嘔吐をしている場合
病院に行く前は水分も食べ物も
与えない。と書いてあったため
その通りにしてしまいました。
翌朝、愛犬は死んでいました。
庭に土葬し、その日から毎日
愛犬の写真と遺毛の前に
欠かさずお水とお線香を上げています。
愛犬が死んでから1ヶ月経って
ふと思ったのは、
愛犬は脱水症状で死んでしまった
のではないかということです。
病院に行く前に飲食物を与えないと
言うのは、当然すぐ病院に行く場合
であるはずです。
水も与えずに下痢や嘔吐をしている犬を
夜から朝まで放っておいたら
死んでしまうに決まっている
と思いました。
私はなんてことをしてしまったんだと
なんであの時そんな簡単なことに
気が付かなかったんだと
なぜ高いお金を払ってでも
夜間病院に連れていかなかったんだと
後悔と申し訳なさでいっぱいです。
私が愛犬を苦しめ
殺してしまったんじゃないかという
気持ちが重く心にのしかかったまま
過ごしています。
私は愛犬にたくさんの愛を貰ったのに
自らの手で愛犬を苦しめ殺してしまった。
愛犬は私を恨むような子ではないけれど
それが更に辛いです。
いっその事罰してくれたらと
思ってしまいます。
愛犬は天国へ行けたでしょうか?
もう苦しみや痛み、悲しみ、寂しさなど
ネガティブなものからは
解放されたのでしょうか?
死んだペットたちが飼い主を待つと
言われている虹の橋で、
自分を殺した飼い主を
待っていてくれるでしょうか?
私は彼をもう一度抱きしめたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
まずは何よりも相談者様が12年間一緒に過ごしてきた愛犬の死に哀悼の意を表します。
相談者様は今も手を合わせておられるのですね。その悲しみはいかばかりでしょうか。文章一つ一つに込められた心を受け止めたいという一心で、これから私の思うことを書きます。
もう24年前のことです。
私が高校2年生の頃、学校の担任から呼び出されました。「家から電話があった。おばあさんが危篤なのですぐに帰りなさい。」と。
祖母は体調が悪く、入院していましたが、まさか危篤になるとは思っていませんでした。何の根拠もなしにいつか元気に帰ってくるものだと思っていたのです。死に目には会えましたが、涙が止まりませんでした。
原因は誤嚥性肺炎でした。
誤嚥とは、年齢とともに飲み込む力が弱くなり、気管支と食道が上手く入れ替えられずに、食べたり飲んだりしたものが肺に溜まってしまうのです。
それを聞いて、私は立ち上がれないほどのショックを受けました。
祖母のお見舞いに行ったときのこと。病室で、私は元気になってもらいたい一心で祖母にプリンを勧めました。祖母は困った顔をしていました。私は「食べないと元気にならないよ」「一口だけでも食べよう」と言いました。かわいい孫の言葉です。私が匙で掬ったプリンのかけらを一口食べてくれました。
飲み込んだ先は胃ではなく肺だったことでしょう。自らの愚かで浅はかな行動に自分をせめつづけました。祖母の病気のことを知ろうとしなかった自分にも腹が立ちました。今もなお悲しみがこみ上げます。
相談者様は私が祖母を殺したと思われますか?
…その答えそのままが、私があなたに届けたい思いです。
天国に行ったかどうかは修行の身の上のため、私には分かりません。尊い師から「死に方で行く先が決まることはないよ」という話は聞きましたが、今はただ「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えることでみな救われるという教えを聞き、救いとは何かを学ぶ日々です。
愛するものを傷つけた罪に苦しむ私に尊い師はまたこのようにおっしゃいました。
「あなたは愛しているものを傷つけて罪を感じておられるようだけど、愛していないものをどれだけ傷つけようとも罪を感じない心があなたにはあるでしょう。仏様はそのどちらも悲しんでおられます」と。
この言葉の意味を私はずっと考え続けています。答えが出たとき、祖母と再び出会えるような気がして。