突如大切なものを奪われるのは何故ですか?
専業主婦です。去年交通事故でダンプカーに跳ねられ、生死を彷徨う程の
大怪我をしました。
私の足も、生活も人生も一瞬にして滅茶苦茶になってしまいました。
健康だけには自信があり、そして自慢の足でした。
もう生きていられない程の苦しみを味わっています。
ふと思ったのですが、才能のある方がその才能を奪われてしまう
事を時々見聞きします。例えば、作曲家が聴覚、歌手が声、ピアニストが
指、画家が視力など、その人にとってとても大切な器官を失ってしまうという
事がありますね。以前から常々、不思議に思っていたのですが。。。
私は自分の足をとても大事にしていたのでこの事がふと頭によぎりました。
何故そのような酷い事が起こるのでしょうか。
例えば、バイオリニストが足を失っても、手があれば楽器が弾けます。
作曲家が声を失っても作曲は出来ます。
なぜ、その人にとって大切なものが奪われてしまうのか?
お教えください。よろしくお願いいたします。
大怪我
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
縁起
ご相談拝読しました。事故により生死をさ迷い、大怪我を負い、生活も一変してしまわれたとのことお見舞い申し上げます。
あなたの苦しみはお察しするに余りあるものであり、本回答でお気持ちに添えないこともあろうかと思います。
しかしながらご相談について出来る限り一緒に考え、hasunohaがあなたのこれからの生きる力を支える良縁となることを念じます。
さて、この世で起きる出来事については色々な見方がありますが、
①宿作因説-自分が過去世に為した行為の報いによって今生における苦楽の境遇が決定されるとする説
②尊祐説-私たちの経験する苦楽がすべて絶対的な神の意志に依存すると主張する説
③無因無縁説-起こることは全て偶然であるとする説。
この三つに大体集約されるでしょうか。そしてこれらは全て仏教においては否定されています。
あなたのおっしゃる「突如大切なものを奪われる」というのは何か奪う主体が想定されているならば②になりますし、運命論ならば①になるでしょう。
仏教ではそれらの様に考えず縁起説を取ります。物事は縁によって起こるということです。縁とは条件・環境・対象などの意です。
すなわち事故ならば運転手の不注意や道路状況、天候、などの縁が考えられるでしょう。また事故に遭ってしまった方がその場に居合わせることについても様々な縁があるでしょう。こうした縁は一つ一つ考えたらある程度思い付きはしますが、けして人知で全ては追えません。でもけして原因が無く起こったわけではなく、数えきれないほどの条件がととのって一つの現象が起こったということは間違いなく言えるでしょう。
つまり、大切なものが奪われるのではなく、悲しい縁によって奪われてしまったものの大切さがそのことをまた縁として見出されてくるということでしょう。
大切だから奪われたのでなく、奪われたことによって大切なものであったことにより気づかされたと言えば少し月並みな表現ですが、まあそのようなところであると思います。
あなたの大切な足が奪われて大変な失意と混乱の中にいることと思います。悲しいかな私たちには縁を思う様にコントロールすることはできません。
しかし少しでも良き縁にととのえようと精進する事はできますし、降りかかってきた縁に対し主体的に態度を選択する自由はあるはずです。
これからの人生の課題として。
大変な大怪我をされ、大切な足が奪われてしまったこと、そのご心痛は言葉では語り尽くせないかもしれませんが、心よりお察し申し上げます。
お寺の信徒の方で、車椅子を余儀なくされた方がいます。やはり事故でした。
その後、どうされたかと言うと24歳から、車椅子陸上(車椅子レース)に挑戦し以来、数々のパラリンピックや国際大会にて新記録を樹立し、しかも今62歳ですが現役で頑張っておられる方がいます。
さて、Petziさんが不安に思い、多くの矛盾が生じてくる。なぜ、その人にとって大切なものが奪われてしまう。どうしてなのと理不尽に思われることと存じます。
たしかに私たちに与えられているものは、すべて無駄なものはありません。すべて大切なものであります。その一部が何らかの原因で無くなってしまうこと程、恐怖はありません。どうして人生において、そのようなことが起きるのかということです。
色々な理由や理屈を並べても解決にはなりません。現実に元には戻らないからです。では、どのようにこの先の人生を歩むのかです。
今までの自分の範疇ではなかった分野を知ることになります。
ハンディキャップを背負いながら、世の中を生きることで、人の心や、さらに深い愛情、友情、人間関係を築き知ることができます。
さらに、そのような環境でなければならない、世の中の仕組みの矛盾と改善ができます。
そして、この世には偶然はない。と思います。では必然なのかとなりますが、Petziさんにとって今日までの人生、そしてこれからの人生、すべてご自身で、又、今回の人生の課題をあらかじめ設定していた。それは神様でもなく、誰でもなくご自身で、様々な条件、環境の中で経験したいと考えてた通りになっていると思うのです。とても冷たくお話しをしていますが、しかし、そうであれば、ではこの先の人生をどう歩むかも漠然としているかもしれませんが、ならばと言うことになります。
過去の事は、どうしようもありません。しかし、未来は今から創造していけます。あとは自分がどのように決断するかです。
他人事だから、何でも言えると思われるかもしれませんが、このように考えています。
世の中に何人歌手がいるか
歌手の中には、喉をいためたり病気で声を失う人もいます。
でも、世の中に何人歌手がいるでしょうか?
手を怪我する歌手もいれば、視力を失う歌手もいる。
色んな歌手のサンプルがあり、その中に声を失う歌手がいる。
ただ、歌手なのに声を失うという物語が印象的なので注目されやすいだけでしょう。
いずれにせよ、私たちは必ず死にます。
いつか全てを失います。
死ぬときに、足の細胞から死ぬ人もいれば、頭の細胞から死ぬ人もいるかもしれません。
色んなパターンがある。ただそれだけです。
追記
自分を一般論のひとつのケースにすぎないと冷静に見るのが、仏教の智慧です。
そうすることで、気持ちが落ちつき、悩み苦しみが減るのです。
質問者からのお礼
吉武先生
ご回答をありがとうございました。感謝致します。
今はどの様に考えても受け容れていく事が難しく、まだまだ混乱しております。
もう少し時間が経ち、受け容れられる方向に自分の心が向いていけば
また改めて事故と縁との関係性を考えられるようになるかと思います。
時間を置いて先生の回答を度々読み返してみたいと思います。
本当にどうもありがとうございました。
鈴木先生
ご回答をありがとうございます。感謝致します。
スピリチュアルな本を過去に読んだ事があるのですが、
全ては自分でシナリオを決めて生まれてくるとありました。
でも実際には、私の周囲確認が足りなかった、、、青信号でも
危険がないかを確認せずに渡ってしまった、それをずっと悔やみ
続けています。早く立ち直り、前向きに生きていかなければと
思うのですが。
本当にありがとうございました。
願誉先生
ご回答をありがとうございます。感謝します。
確かに一般論的にはそうですね。確率からしても。
でも一般論で割り切れないからこそ、新興宗教や
占い、スピリチュアルの類いに救いを求める人が
大勢いるのではないでしょうか?
どうもありがとうございました。