hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

生きることは正しいですか?

回答数回答 3
有り難し有り難し 52

先だって、「風俗経営者の息子として」というタイトルで質問させて頂きました。真摯な回答をありがとうございました。

あまり間をおかずに恥ずかしい限りですが、もう一つだけ質問がございます。

生きることは、そもそも正しいことでしょうか?

私は小学生の頃、宮沢賢治が好きでよく読んでおりました。その中でも好きな童話に「よだかの星」があります。よだかという醜い鳥が、迫害と、なによりも生きるために他の命を犠牲にすることを悲しみ、自らを燃やして美しい星になる話です。そんなこともあって、幼い頃からぼんやりと「他人のために迷わず自分を犠牲にできる人間になりたいな」と思っていました。

それから十数年が経ち、私はすっかり凡俗な人間になってしまいました。他人より優れたいと願い、魅力的な異性と交わりたいと欲し、美味しいものを腹いっぱい食べたいといつも思っています。

幸せになりたくて、たまらない。惨めなまま死にたくない。一般の人よりは何倍も死にやすい難病であることも手伝って、そう思うことをやめられません。

しかし、こうも思います。私が幸せになることは、他の人が掴めるかもしれなかった幸せを奪うことではないか?と。

私が何かを食べなければ、それを他の誰かが食べられたかもしれない。私があるところに就職しなければ、他の誰かががそこで働けたかもしれない。私がある女性と結ばれなければ、彼女に恋していた他の男が結ばれたかもしれない。私が公的な扶助を受けなければ、税金は他の人を助けたかもしれない。

私が生きていなければ、私がこの世界から奪い取る全ての幸せは、他の誰かのものだったかもしれない。

そう考えると、私が生きていることはあまりに非道徳的なことのように思えるのです。

私が死ぬことは、立派で、道徳的なことじゃないのか?むしろ周りの人たちに甘えて、生にしがみつくことこそが煩悩であり、振り払うべきものなのではないか?私は度々そう考えるようになりました。

自分でも、過激な考え方である自覚はあるつもりです。しかし、「自分はあまりにもみっともなく生に執着している」という感覚がどうしても拭えません。

自分が今すぐ死ねば大勢の人が助かるとしても、自分の幸せを求めて生きることは正しく、道徳的なことでしょうか?

取り止めもなく幼稚な悩みではございますが、何卒よろしくお願い申し上げます。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

椅子取りゲームではない

こんにちは、初めまして。
前回の質問も拝見しました。
あなたも、とても真摯な方とお見受けました。

一読したところでの感想を簡単に申します。
あなたは、幸せを椅子取りゲームだと思っています。
「私がこの世界から奪い取る全ての幸せは、他の誰かのものだったかもしれない」との一文がそれを端的に表しています。

あなたには、あなたの固有の、専用の幸せの椅子が既にあって、あなたは今そこに座っている。それだけで十分です。

その椅子は、別の誰かが座る予定の椅子だったのではないし、ましてやあなたが他人から奪い取った椅子でもない。あなたが生まれた時から、あなただけの為に用意された椅子です。堂々と座りましょう。

自分の椅子に座るだけなのに、「正しさ」や「道徳」の理屈が要りますか。

安心し、感謝し、ぬくもりを感じるその椅子をこれからも大切にしてください。

{{count}}
有り難し
おきもち

釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
このお坊さんを応援する

生も死もただここにあるだけです

己の存在が誰かの利益や居場所を奪っている
もしそれが真理であるなら
人の生きる本質は奪い合いという事になってしまいます

確かに社会には役割があって
その質量、数は決まっているようにみえます
ところがその質量や数は人が自由に作り出せて
変化させる事ができます
人に役目や居場所を与えること
それはを例え自分が出来なくても
他の誰かにはそれが可能なのです

私も極端に考える癖がありますのでお気持ちは理解できます

その上で理解を深めるべきと考えるのは
正しい幸せについてでしょうか

例えばSEXや恋愛ゲーム
飲食や娯楽
これらは至極の個人的快楽です
思考は短絡的になり理性より欲求が先立つ傾向が強くなります
こうして己の欲ばかりを満たす中で生まれるのは
ウサギさんの現在のような虚しさとなる訳です

別に欲が悪いわけではありませんよ?

人間は一人で生きているのではないのです
極端な言い方をするなら
自分の快楽も他人の快楽も同じように
とても価値があるものと考えてください

人の不幸は自分と他人を分ける所から始まります
自他を比較して
持っているものや
環境をみて
対して自分がどれだけ持たないかを知って惨めになり
また、自分がどれだけ持っているかを知り自分を凌ぐ豪族が現れるまで束の間の安堵の妄想に浸ります

そうして皆詰まらない一生を過ごします

大事なのは
自他を区別せず共に幸せにある道を模索することです

己が死んで全てが解決すると考えるのは間違いで少し危険です
もしそうなら世の中はどんどん良くなっていく筈です
所が人は何も進歩していない
己の欲も怒りも悲しみも未だコントロールできず
差別、争いを繰り返してます
これは己の快楽的生き方にのめり込んでいる証拠です

己に与えられた場で
己に幸せにできる人を幸せにできる
これほどありがたい事はないですね

またいつでもご質問くださいませ

合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

山形のそれは小さなお寺の住職です。 私は子供の頃いじめられ、社会からドロ...
このお坊さんを応援する

あなたの生きる意味や目的を見つめて

拝読させて頂きました。
あなたがご自分が生きることについて誠実にあれこれとお考えなさっていらっしゃることを推察します。
おっしゃるとおり生物の生存競争の中ではいかに自分が生き残るかで命のつなぐかおとすかを繰り返していますが、それは自然の法則の中で生きることの価値を与えています。この地球の中でどうすれば誰かが生き残っていけるかを目指しているのです。単体でみれば争いに見えるかもしれませんが、生き残るために試行錯誤を常に繰り返して生き残りやすい身体や生き方が選ばれて残っていってるのです。それは大きな生命の流れからみればいかに生き残っていけるかを挑戦し続けている姿です。ですから本当に尊いことかと思います。大自然の神秘や生物の営みにはいつも感動を与えられます。

そして私達人間は単体ではとても弱い存在です。ですから生まれてから死んでいくまでお互いを育み助け合って生き残っています。それは言葉を使ってお互いのことを理解し合い尊重し合い思いやりながら助け合って生きていくことです。その中で共感し合いそのつながりを大切にしていきながら生きることがそれぞれに生きる意味や目的になり感情的にも幸せを感じて生きることになっていくのです。
詩人の相田みつをさんの詩の中で「奪い合えば足らぬ 分け合えば余る」という言葉があります。お互いの為に分かち合う中で余りが出て、またそれを別の方たちに与えることで一層その生き残る輪が広がっていき、嬉しかったり楽しかったり本当の心の豊かさや幸せを共に味わいながら生きていくことができるのかと思います。

今とても世界が社会が地域が大変な状況です。大変な思いをなさっていら者る方々が沢山います。国の方針で補助金や給付金は本当に大変な思いをなさっている方々は受け取ることができないとなっていましたが、今改善されたようですけれども世の中には本当にひどい差別や偏見があり弱い方々苦しんでいる方々を余計に追い込んでいます。
あなたがもしもそのように苦しんでいる方々や今生きる為のお金のない方々を見たらぜひあなたのできることをできる範囲でなさってみて下さいね。
あなたがそのように誠実に考えて行動していく中にあなたにとっての本当に大事なものや生きる意味や目的や生き甲斐が見えてくると思います。

あなたをこれからも応援させて頂きますね。

{{count}}
有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
このお坊さんを応援する

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ