身体は元気になったはずなのに、、、
幼少時より障害や持病と向き合い、それなりに明るく前向きに生きてきました。
先年、懸念のひとつであった先天性心疾患の手術をして頂き、一応の成果を得て、そのことはとても感謝しているのですが、気が付くとなんだかもうくたくたになってしまった自分がいました。
いつまで戦えばいいのでしょう。
もう50歳を過ぎ、充分頑張ってきた気がします。
母を、夫を、友人たちを全て見送れば、こっそり消えてしまっても許されますか?
家族や友人に自死遺族の苦しみを背負わせたくはない、その一心で今日も生きています。
50代既婚子供なし 隣の母屋に透析中の母と心臓疾患を持つ姉がいます。姉は癌サバイバーでもあります。 持病持ちです。幼少時より耳硬化症による重度の難聴、9歳〜慢性腎炎、17歳〜原発性リンパ浮腫、30歳で結婚、2度倒産の憂目にあいました。36歳腸管静脈梗塞→免疫系疾患、40歳頃?眼底出血により左目視野欠損、43歳脳梗塞→先天性心疾患、上行大動脈瘤、脳動脈瘤、単冠動脈症発見、空腸多発血管腫、急性膵炎ほか細々。 たくさん手術をして頂いたお陰様で、今のところ不十分ながら聴力も得て、心臓も動いております。
沢山のかたに尽力して頂き、せっかく元気にして頂いたのに、なんだか気力が尽きてしまいました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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環境を変えてみては
50代ということですから、私と同年代ですね。それなのに何とたくさんの病歴でしょう。びっくりしています。何しろ私は今年初めに網膜剥離になり、生まれて初めて手術を受けた、という人間ですから。
ただ身体そのものは虚弱で、細々と生きてきた人間です。頑健には程遠いので少しだけあなたのお気持ちが分かるところもあります。
仏教では、外界の、つまり私たちが見るもの、聞くもの、触るものなども自分の一部だと考えます。何故なら、それを目や耳で受け取って何がしかの感覚が生じ、そこからキレイとか素敵な音楽とかという判断が生じ、それによって快不快の感情が生じるからです。簡単にいうと好きな音楽を聞けばハッピーになることから考えると他人が作った音楽も自分の一部だということです。
つまり、「もういいや」という感情に支配されておいでになり、これじゃいけない、とも思っておられるなら、環境を変えることで考え方も変わり、生きていることに幸福感が得られるかもしらない、ということです。
私ごとでいいますと、田舎に住んでいますので近所の丘みたいな山に登りますと自然を満喫できます。3キロぐらいで頂上になりますが、琵琶湖がきれいですし、多少は運動になりますので充実感もあります。お金は行き帰りのガソリン代などごくわずかしかかかりません。これだけでも全然違います。
一般には運動がいいと言われますが、こだわることはありません。子ども食堂をやっていますが、ここでボランティアスタッフさんとの出会いがあります。できそうなことから環境を変えてみられては如何でしょう。何がしかの生き甲斐を得られたらお悩みも軽減されるものと思います。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
ただ先の恐怖に震えているばかりだった自分に気が付きました。
またいずれ、嫌な時が来ます。
ですが、今は先のことを考えず、今日の好ましいもののことだけを考えて生きていければと思います。