不適合者が世に生きる道理がありますか
何人もの上司に自分の仕事の出来なさ、勉強の出来なさに見切りを付けてもらい、今も様々な企業に面接で見切りをつけてもらっているのに、どうしてそれでも自殺せず、のうのうと生きているのだと思っています。
組織が行う競争に必要のないものは自ずと排除されるのが世の常となって久しい筈です。その上、死にたい、殺してくれと子供の頃からずっと言っているような者に、どうして世を生きる理由や価値がありましょうか。
もし死んでしまえば誰かに当然迷惑がかかります。しかし、これ以上、会社が苦労してお客様からいただいたお金、誰かの税金、社会保障費を毟り取ってまで自分が生きる理由にはなりえません。どちらが世の損となるでしょう。
たとえ手足が不自由でも立派に仕事をしている方々はいらっしゃいます。しかし、私はあの方々のような、この先を生きていく意思があるわけではありません。幼少の頃から必要のない存在なら殺してくれと何度も喉の中で繰り返した様な者です。
体力も、手先の器用さも、物覚えの早さも、人と交渉する力もありません。社会のごみという表現もある程度は世の中で使われる表現になった今、三十路を迎えようとした自分にどうして生きる価値がありましょうか。
世は世を生きる意志のある者、世の為に働く者が作り上げたものである筈です。力も意思もない者がどうしていていい場所でありましょうか。周利槃特様のような心の強さはありません。そんな者が縁によって生きているという言葉で死んではいけないと言われる理由がありましょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「身に余る光栄」
「不適合」と思うことは、裏側から見れば「身に余る光栄」ではないでしょうか?
今死んだら、来世で人間になれる保証はありません。
せっかく人間に生まれたのだから、人間界を楽しむのも良いと思います。
コロナで旅行も行きにくいですが、見たことのない世界を見るために、遠くまで出かけてみてはどうでしょうか。
先日、金星の大気に生命がいる可能性があるという新聞記事に私はわくわくしました。
面白いことが突然やってくることもあります。
追記
では、強引に生きようとはせず、「死ぬまで生きればいいだけさ」という感じで、エネルギーが切れるまで適当に生きましょう。
浄土宗では、南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)える者は、来世で極楽浄土に生まれることができると考えます。
だから、今、南無阿弥陀仏と念仏する。これで、仮に今死んでも人生のハッピーエンドは確定している。
縁あって生き長らえたら、また今日も念仏できることを喜ぶ。
そうやって、毎日毎秒を、南無阿弥陀仏の喜び(楽しみにしている極楽浄土のチケットが手の中にあるのを確認するような気分)に浸りながら、お気楽に死を待ちましょう。
今日死んでも来年死んでも、念仏すれば極楽に往生できます南無阿弥陀仏。
金持ちでも貧乏でも、往生できます南無阿弥陀仏。
善人でも悪人でも、往生できます南無阿弥陀仏。
笑っても泣いても、往生できます南無阿弥陀仏。
質問者からのお礼
願誉浄史さま
お忙しい中ご回答いただき誠に有り難うございます。
身に余る光栄という捉え方は持っていない視点ではありました。しかし、申し上げにくいのですが、その気持ちを持っていようといまいと世の中は自分に割く時間も金銭もないのだと思えてしまいます。まして、流行り病が企業単位で人員整理を強いている今とありましては自分の様な者に生きてよい場などどうしてありましょうか。たとえ不自由な方々でも、世を生きる力強さを持ち、世のために生きる人はいましょう。その様な方々が世に生きるべきで、自分は世から弾かれて然るべきと思っております。今現在は申し訳ありませんが、いただいた言葉を受け止めきれずにおります。
追記でのご回答をいただき、ありがとうございます。
宗派の考えも合わせてご回答いただき誠に恐縮です。
飢えるのか、病にかかってなのか、その日が年末なのか、もっと先なのかは分かりませんが、世の中の道理に逆らわず、おっしゃる通りに緩やかに死んでいこうと思います。