転身してお坊さんになられた方々への疑問
初めまして、この度自分では消化できない思いが芽生えまして。
お時間のある時に疑問に答えて頂けたらと思います。
先日、身内に「お坊さん方が相談にのって下さるサイトがあるんだよ」とこのハスノハを紹介したところ、身内が「なんか脱サラして僧になった人や元プロレスラーの僧がいるんだな……」となにやら神妙な顔で呟いたなと思いきや、
「この人らって僧になる前に大なり小なり犯した罪ってどうしたんかな?」
「人の悪口を言ってしまった、ネットで誹謗中傷してしまっただの相談に説教かましてる坊主がいるけど、この坊主らは今までやってきた前職でおかしてきた罪や行いはどう折り合いつけたんだ?」
「例えば元プロレスラーならそういう職業とはいえ汚い言葉で相手に暴言吐いたり殴ったりしただろうに」
「仏の道に入るんだから前に殴った相手だとか1人1人にちゃんと謝罪したんかな?それとも仕事だから別に悪い事じゃないとか思ってんのかな?もしくは過去は過去ってことでその事は切り捨てたり忘れたりしてるのかな?仏道に入ればそういう行い全部帳消しになったつもりでいたりするんかな?」
「なんにも過去を清算してない坊主が、ここで必死な思いでどうしたら良いか相談しに来られてる方々に説教してる姿に違和感がある」
「自分の事棚に上げて説教してるんならある意味偽善者よりタチが悪い気がする」
と、そのような事を言っておりました。
私はそれを聞いた時にギョッとしたものの、確かに…とちょこっと共感するところがありました。
お坊さんになられる前の職業でいろいろあった方々がいらっしゃると思いますが、過去の自分の行いにはどのように向き合っていらっしゃるか教えて頂きたいです。とても気になります。
好奇心旺盛過ぎる 心配しすぎる
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
罪、と向き合うこと
こんにちは、初めまして。
私なりに答えてみましょう。
私は、ご質問のような前職を持っていないのですが、そもそも最初からお坊さんという人はいないと思います。僧侶になる前には、当然のことながら何らかの学生を経てなります。あえて言うならば、私は学生から僧侶に「転身」したのです。しかし、学生は職業についていない状況だからといって、「おかしてきた罪や行い」がない訳ではありません。「プロレスラー」でなくても「汚い言葉で相手に暴言吐いたり」した覚えはあります。
そもそも、仏教で「罪」とは仏に成る方向性と逆のことを行うこと、行った結果、全般をいいます。だから、誰かのことを心のなか(口、行動に出さなくても)で憎んだり、嘘をつこう(一例です、もっと沢山有ります)と思ったその瞬間が既に悪であり、結果罪になります。これは、法律以上に厳しい捉え方です。
こういう仏教的なものの見方で考えると、日々行い、悪を抱き、罪を作るという点では、私も、そのお「身内」も例外ではありません。あなたは罪を犯している、「偽善者よりタチが悪い」という指摘の仕方には、果たして自分の罪(仏教的な)を省みる人の言葉でしょうか。お互いに根深い悪、罪を抱えているね、という見方の人は自ずと違う言葉が出てくると思いますが。
このように説明すると、謝罪なり「過去を清算」することは大切ですが、だからといって悪、罪が消えて清らかな僧に成りました、という単純なものではないのが分かると思います。
だから、罪を犯していないから僧侶になれる、犯していたら僧侶になれない、ということではありません。
むしろ、先に述べたような自らの心のなかに毎日、毎日湧き上がる悪、罪、これと向き合うために僧侶に成る、成っていると考えるのが仏教的には妥当です。
少なくとも悪、罪、行いと向き合い、過去とも、現在とも、未来とも苦闘しようとしているのが僧侶だと思います。向き合うことによって成仏道を探っている僧侶を温かい目で見てもらえると嬉しいです。
追記
前職がある、ないは本質的な問題で無いという意味がわからないですか?
答えになってるかどうか分からないのは、あなたが仏教的な罪の説明を理解できていないからです。
自分がよく理解できないことは、一旦宿題にしてきちんと整理して考えて返答するぐらいの謙虚さが必要かな。
残念です。
ちょっと疑問ですが。
初めまして。
私は一般家庭の出身でして、現在も食えないので一般企業に勤めながら僧侶として色々失敗もしつつ生きているのですが、仏教における過去の行いへの向き合い方のようなものをお知りになりたいのですね?
『形式的』には各宗派によって様々ですが、修行中「懺悔行」というものが大抵あると思います。言葉の通り仏門に入る前に過去犯してきた様々な罪科を本格的な修行に入る前に全て仏様の前で懺悔をするわけです。
ただご相談内容を読んでいて誤解されたくないのは、これを行ったからといって「はい、これで許されたー!」なんてことはありませんし、そんな馬鹿な発想をしている人間は恐らく(恐らく、ですが)いないと思います。目を逸らすことなく罪への向き合い方や姿勢を学ぶ行だと私は感じております。
それまで欺瞞的に見て見ぬふりをしてきたような事柄にも目を逸らさず向き合う生き方をそこから実践していくわけです。
気になったのは、お身内の方が随分と穿った先入観をお持ちであるというか、なぜ僧侶が過去を棚上げにしたり何かをすでにやらかしてる前提でお話されているんだろうなぁと。
言葉の端々からは漠然とした脳内の悪いイメージの僧侶に対する嫌悪感のようなものが読み取れますが、社会人として確たる根拠に基づかない前提で(つまり憶測で)話すのは如何な物でしょう?・・・とは言え私も若い頃は偉そうなことを言えたものではないので、部下にはそっとたしなめております。
僧侶と一言に言っても大勢いらっしゃいますから人それぞれと言ってしまえばそれまでですが、何かを背負って仏門に入ってこられた方々を見ている限りでは、ふとした瞬間に皆さんずっと目を背けず心に留めて一心に励んでおられるんだなぁと感じる事もあったり、そうでない方もおられたりです。
人間の数だけドラマも数々ですがその辺りは一般の方々同様ではないでしょうか。
人様の心の中まではわかりませんから、その人がどの様に過去を悔いているのかなぞは他人には窺い知る由もありませんが、そうした心の内面のようなものを敢えてカミングアウトのように軽々しく言える人間ばかりでもないでしょう。
少々脱線しましたが過去を切り離して生きている人って、僧侶であるなし関わらずいらっしゃらないと思いますよ。
僧侶は生きざま、職業ではない。
ご質問拝読いたしました。
読んでいて感じたのは、
僧侶を仕事の一つとして、
捉えていて、
こういう職務につくのだから、
こういう特性がいるのだと、
感じました。
世俗的な聖職者は、
斯くあるべしという前提に
立っているのです。
仏教の目的は、
正覚を得る。つまり悟りを
開くことです。
逆に悟りを開くと、
不退転の位、
輪廻転生しませんから
こちらの世界にいませんよ。
つまり、
愚僧もあなたも凡夫、
同じ娑婆世界を生きる人間、
多少仏教的な見地と、
社会的な経験を生かして、
意見を述べているに過ぎません。
これは悟りを開ける筈もない、
愚かな私ですが、
如来さまのお誓い、
衆生済度のお手伝いの
つもりです。
だからボランテア、
無料なのです。
質問に答えているようで、
学ばせていただいています。
愚僧は5歳から
行者の真似事をして、
毎日毎日、真言を唱えて
印を結び、祝詞やお経を
唱えています。
途中から御縁があって、
真宗に変わりました。
これは生き様です。
小学校、中学校、高校、大学、
大学院へ進み、
会社員、団体職員から、
いまは、住職と経営者を
しています。
これは生業です。
人間関係に悩み苦しむから、
資金繰りに東奔西走するからこそ、
人の痛みに共鳴共感できるのだと、
思いますよ。
同じ人間だから、
つまらないことに、
イライラし、
後から、
何ともお粗末な自分であることよ、
と反省できるのだと思います。
こんなだらしのない私だから、
ハスノハの御縁で、
学ばせていただいているのです。
おまいうと言われても誰かの役に立ちたいという気持ち
こんにちは。
なるほど。過去に人を傷つけたりしたかもしれないお坊さんが、悩み相談なんて説得力がない、と思ったのですね。
私はお坊さんになる前はサラリーマンをしていましたが、確かに過去を振り返ってみると、よかれと思って口にしたことが人を傷つけてしまった事が何度もあります。それはお坊さんになった今でもあります。私は、そのたびに反省し、もうしないようにするように気をつけるようにします。それでもやっぱり失敗はあります。
プロレスラーの話が出ていましたが、プロレスラーは、リング上でプロレスラーの人としか相手をしません。試合です。理不尽だったり弱い者いじめだったりではありません。それは剣道や柔道と一緒です。もし、プロレスだけを批判の対象に考えているのでしたら、それは職業に対する差別でしょう。職業に貴賎はありません。
生まれてこのかた清廉潔白のお坊さんがいたとしたらそれはもちろん立派な事で尊敬しますが、悪い事をしたら反省し気をつけて、また失敗しして..というお坊さんも、なかなか味わいがあって良いものだと思いませんか?私も過去に反省しなくてはならない点がたくさんあり、「おまいう」(おまえが言うな)などと思われてしまうかもしれない。それでも、私には誰かのお役に立ちたいと気持ちがあり、それを抑えることができずに、ここで回答を続けています。
苦しみと罪といくらかの後悔、の案内人
きっと偉そうなのが気になったんですよね。
罪に関しては、みんな平等で、知ったら改めていくのが基本ですね。
「膿み足に腫れ足」という言葉がありました。
自分の足が膿んでいる。
なのに人に「お前の足は腫れている」
と指摘するなという意味だそうです。
上から目線も
そして下から目線も
なくなればいいのにね。
どこかでも書いたけど、私たちは他の命を頂いて生きています。
日々罪を犯さざるを得ません。
その自覚の深さが尊さだと思います。
私たちは弱く、誰かを悪く言ってしまうものです。
しかし、みんな同じように弱さを抱えて生きている。
苦しみをなんとかしたくて僧侶になった。
それってある意味で業が深い?
苦しんだということじゃないでしょうか?
ならば、「罪作りの先輩(先輩ではない場合も多いです)」
としてみなさんに物申す。
「あなたはいま苦界のこの辺にいて、
あっちの方が安全だと思いますよ〜」
いわば、ここ地元なんで道案内できますよ〜
という感じでしょうか?
案内するのは、もちろん自分よりは楽にそこを抜けてほしいからです。
膿み足腫れ足で、言わなくてもいいことかもしれないけど、
助かったと言ってくれる人もいますものね。
僧侶になるなんて、
私は前世でよっぽど悪業か、さもなければ善業をつくった気がします。
質問者からのお礼
前職をもっていらっしゃらないなら、無理にこの質問にお答えにならなくても良かったですのに…ありがとうございました。
向き合うとはどのような感情で向き合っていらっしゃるのか、具体的にどういう行動なのか更に疑問が出てきました。
あまり回答になっていないですが、とても興味深い話が聞けて良かったです。