何故「太く短く」は理解されない?
私は持病が悪化し合併症も出てきて、薄ぼんやりとですが、死ぬ事を意識し始めました
自分の考えとしては「太く短く」です
いずれはお迎えが来ます
「その時」、後悔したくないと思ってます
しかし、周囲や医者はどうも「細く長く」を推奨します
食事制限・運動制限・生活制限
我慢に我慢をして長生きしろと言うのです
仮に我慢して臨終の時、「焼肉食べたかった」が私の最期の想いだったら…
考えるだけでがっかりです
長生きする事は必要なのですか?
短くていい、楽しく生きたいと考えるのは理解されないのでしょうか?
もし、私が道を踏み外しているとしたらお叱り下さい
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
命に長い短いなんて関係ない
ご病気、本当にご苦労されてますね。
価値観のひとつで、長生き健康が重要視されているのは、テレビのコマーシャル一つとっても明らかです。
老病死を、いかに遠ざけようとしているか。
仕方ないことかもしれません。
「太く、そして長く」生きることができればいいのですが、老病死は思い通りにならないのが悲しい現実です。
相談者さんが書いてある通り、自分の老病死を受け入れるなら、個人的には制限なしの生き方をしてほしいと思います。
ただ、あえて苦言を申すなら、欲望を満たすために残りの人生を費やすのは辞めて欲しいなぁと思います。
食べたいものは食べてほしいですし、後悔しない生き方も目指してほしい。
でも、人って欲望を満たす=楽・満足じゃないんです。
少しでも、相談者さんの病気が平癒されることをお祈りいたします。
最後に大島みち子さんという方の詩を紹介します。
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病院の外に
健康な日を三日下さい
一日目
私は故郷に飛んで帰りましょう
そしておじいちゃんの肩を叩いて
それから母と台所に立ちましょう
おいしいサラダを作って
父に熱燗を一本つけて
妹たちと楽しい食卓を囲みましょう
二日目
私は貴方の所へ飛んで行きたい
貴方と遊びたいなんていいません
お部屋をお掃除してあげて
ワイシャツにアイロンをかけてあげて
おいしいお料理を作ってあげたいの
そのかわり
お別れの時 やさしくキスしてね
三日目
私は一人ぼっちで思い出と遊びます
そして静かに一日が過ぎたら
三日間の健康をありがとうと笑って
永遠の眠りにつくでしょう
質問者からのお礼
…なんと言って良いものか…
涙が止まりませんでした
祖母が眠る鎮西身延山 本仏寺に行ってきました
山門を入る前に「無事にお参りさせていただきましてありがとうございます」と口にしました
此処で答えの1つを見つけました
「感謝」でした
日顕様のお話と大島みち子さんの詩が心に沁み渡る瞬間でした
日々を大切に、感謝を忘れずに
良い1日を教えて頂きました
ありがとうございます