罪深い自分
数年前より精神的に不安定になり、人生を振り返ると私はこれまで人には言いづらいような悪いことをたくさんしてきました。人生を振り返ると「あんな悪いことも、こんな悪いこともしてる」と、具体的には言いたくないのですが、私の行動によって親しい人や見ず知らずの人が困ったり、辛い思いをしたこともあったと思います。罪の意識や他人を思いやる気持ちが希薄だったと思います。しかし、幸か不幸かそれらが大きな問題になることなく生きてこれてしまいました。自分は罪深い人間だと今苦しいです。
私がしてきたことで私は社会的に罰を受けたりしてないです。なのに私は人に恵まれ仕事にも恵まれてます。そうやって罪深い自分が社会で平気で暮らしていることは卑劣だと思えてしまいます。
私は今後、昔のように社会的に誉められないようなこと、自分が恥ずかしいと思うことはもうしないと固く誓っています。他人に嫌な思いや迷惑をかけた以上に、他人の何か少しでも役にたちたいです。
ただそう思うほど「過去に悪いことをした自分はいずれ大きな罰を受け、過去に悪いことをした自分はまた悪いことをする」と思えて、「忘れてたけど、あんな悪いこともこんな悪いこともしていた」と次々と過去の悪事を思い出し「どれだけ自分は悪い人間なんだろう」と恐怖です。
私が罪深いことを知らなくて、私に親切にしてくれている人間を今後、私が社会的に問題を起こすことで裏切って傷つけてしまう日が来るのではないかとも想像してしまい不安です。
「悪いことをした人間は幸せになってはいけないし幸せになれない」と思えて、自分は幸せになれないなら生きる意味が見いだせないです。
そもそも私はこの精神的に不安定な状態から抜け出して、もっと幸せになりたいし、もっと社会的に活躍したいです。
しかし、そう思えば、「罪深い私は必ず不幸になる」「悪いことをしてきた自分はまた悪いことをする」と、耳元でささやかれているようで、不安で恐怖です。
芸能人や政治家が何かがきっかけで、その地位から抹殺されたり、転落していく姿を見ると、「罪深い自分もやがて何かでああなるだろう」と想像してしまい不安で恐怖です。
罪深い私は今後、過去にどう折り合いをつけ、自分はどうやったら幸せになるのでしょうか。私は幸せになる資格はあるのでしょうか。
まとまらずにすいません。これが今の悩みです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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