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死産した子の納骨

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2年前に臨月で死産した子供がいます。
すぐに納骨する気持ちになれず、仏壇を購入し手元に置いています。
先日、主人の祖母が亡くなりました。
墓石に名前を刻むのは亡くなった順番、だから死産した子供も祖母の納骨と一緒にお墓に入れる…
と主人や義両親に言われました。
次にお墓をあけるのは、義両親が入るときかもしれないからだいぶ先になってしまう…と。

私の気持ちは関係なく決められていたこと、産んだ本人の気持ちよりも墓石の順番の方が大事なのかな…と悲しい気持ちもあります。

元々「一年ぐらいは悲しいかもしれないねー」と義母に言われていて、
一年過ぎたら悲しんでいられないのかな…と、納骨を拒否できる雰囲気もありません。
納骨までに心の整理をしなければ、と焦る気持ち。納骨の日のことを考えると涙が出ます。

上の子も、亡くなった子供のことを大事にしていてずっと一緒だと思っていたので
突然の納骨の話に少し戸惑っています。

納骨のあと、どのような生活になるのか想像つきません。
どのような心持ちでその日を迎えたらいいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

一つの方法として、

亡くなったお子さまの分を空けて、
お祖母さまの名前を刻むという方法もあります。
そういうことも念頭に置いて、
もう一度相談してみては?

亡くなった順番に絶対納骨しなければならない、
とは決まっていません。
何年も何年も自宅のお仏壇に納めている方もいらっしゃいます。
全員が納得できるまで、
納骨は延ばしてほしいと思います。

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おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

手元から手放してあげるのですよ

あなたも元々親の子供。
私も親の子供。
みんなみんな誰かの子供。
やがて親元を離れて大きな世界に旅立っていく。
大きな世界とは、人間が人間を所有しない。
仏の海とでも言おうか。
天地世界、法界、宇宙とでも言いましょうか。人間のルールが適用されない世界です。
お墓に納めるとは、お墓に入れてお別れになると思ってしまっていませんか。
そうではないのです。
その子の命はその子の命として尊厳をもたらせてあげることなのです。
あなたの親があなたをずっと私の子だからと、しばりつけて置いたら苦しいでしょう。
いつかは、親元離れて別々に生きるのが、すべての生物のならいです。
「逝かせてあげる」という気持ちで送って上げてください。
もちろん覚悟が出来てからで良いです。
たとえあなたの手元から離れても、あなたの子であることに変わりはないです。安心してください。
お互いに手放されることによって精神的にはお互いの執着が紐解かれて自由な存在になるのです。
諸法無我。
一切の存在は、それぞれが皆独立存在なのです。
自分の感じるもの、見るもの聞くもの、我がものは何一つないからこそ、お釈迦様や悟った人たちは無為、無所得、無我を説いておられるのです。それは寂しいことではない。お互いが自由になれる道です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

無理に悲しみを乗り越えようとしないで

辛い思いをされましたね…お悔やみ申し上げます。

私的見解では、石に刻んでも納骨を後回しにしてもいいと思います。
納骨は一族みんなが納得できるタイミングでするのが一番ですから…

他の解決方法は、分骨です。
でも、分骨できるほどの量がないかもしれませんからね。

そもそも、一年で悲しみを払拭するなんてのが無理な話です。相談者さん、悲しみは無理やり払わないでいいんですよ。
ただ、送った命にいつまでも執着することは、送った命の足を引っ張ることになりますから…

そういった意味で、お骨をずっと手放したくないという思いを引きずって欲しくはないです。
お骨がなくても、その子への供養の心があるだけで、ずっと一緒にいます。
物理的なものでなく、心のつながりです。

自分はすべてのことに意味があると考えてます。悲しい出来事ですが、そのことから気付く大切な何かがあるはずです。

遺骨よりも、その子が身を持って教えてくれた大切な何か、それを大事にできるときに、その子はただ悲しみを与えた存在ではなくなります。親を、兄弟を、活かす存在に進化します。

いずれにせよ、納得できるタイミングで納骨することをお願いしてもよいかとは思いますよ。

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おきもち

困っている人や悩んでいる人にとって、仏さまの教えが少しでも良薬となれることができればと思います。 そしてこの縁によって仏教の良さを知って頂けるととても嬉しいです。

人の命も納骨も順番通りではありません

納骨については納得されたのでしょうか?
納得させられたのでしょうか?
基本的にご納骨については「こうしなければいけない」という決まりごとはありません。
もちろん順番についてもです。
ご主人とよく話し合ってください。もっと手元において一緒にいたいならその想いを伝えてください。
義両親には言いにくいでしょうからご主人と話し合ってご主人に納得していただくのがよろしいかと思います。
「次にお墓をあけるのは、義両親が入るときかもしれないからだいぶ先になってしまう」かもしれないけど来月かも知れません。人の命って儚くってわからないものですから。
別に義両親が入るときにしか開けてはいけないということもありません。
貴女の方が義両親より先ということがあるのもこの世の中ですから。
ご主人と、貴女が「そろそろ納めようか」と思ったときに納骨していただければいいと思います。
よく話し合ってください。

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おきもち

質問者からのお礼

お忙しい中ありがとうございました。
お腹の中で亡くなった時と今回の納骨で、何故二度もお別れしなければならないのか…少し意地になっていた部分がありました。

その子の命はその子の命として尊厳をもたらせてあげること

この言葉にハッとしました。
私がお腹の中で育て、私が産んだ、私だけがつながっていた子、だから手放したくなかった。
でも、この子の命はこの子だけのものですね。
納骨しようと思います。その後も変わらず、ずっと大事に想うことにします。

供養について「こうしなければならない」と考えているのはお坊さんじゃなく、一般人のほうですね。お坊さんのような、当事者に寄り添った考えがもっと世間に広まればいいなと感じました。

お坊さんの皆様が真剣に返答してくださったことが何よりも嬉しかったです。本当にありがとうございました。

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