どうして生きているのかを考えてしまう
自分がなぜ生きているのか。
どうして生まれたのか。
子供の頃からよく考えることが多く、その考えに至ると体がふわっとしたような
不思議な感覚になります。
この話を主人にしたら、なんでら生きているかなんて考えたことない
と言われました。
コロナ渦でもあり、2人の子育てに追われ、日々生きるのが辛いと感じております。
私が生きている意味、生まれてきた理由はなんでしょうか、
このような考えをする人間は多くないのでしょうか?
自身の幸せの見返りを求めてしまう
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
根源的な問い
ご相談拝読しました。
生きる意味、生まれた理由について考える人は少なくないと思いますよ。それはあなたのように明確な問いとなって考える人もいれば、漠然とした不安や空しさや焦りとして感じている人もいるかもしれません。あるいは「これが私の生きる意味なんだ」と理想や目標を強く持ってそこに向かって邁進しているように見える人も、実は本当はわからない生きる意味という問いに蓋をするために無意識的に何か答えをつかんで考えないようにしているということだってあるかもしれません。
仏教的に言えば「(与えられた)生きる意味」など無いということになろうかと思います。しかしそれは絶望的な無ではなく、強制的な意味が無いからこそ無限の可能性があるということです。
しかしそれでは中々これというものが掴みづらく人は不安になるのかもしれませんね。
感覚としては自分で生まれたいと思ったわけではなく気がついたら生まれていた。その私はいつか必ず死ななければならない。それでは一体私は何のために生まれ、何のために生きているのか…そうした問いは根源的なものとして誰もの心の底にあるのではないでしょうか。
仏教的には生きる意味はなくとも生まれた原因はあると考えます。私が私として生まれる前もずっと生まれ変わり死に変わり迷い続けてきた。無始以来、始まりも無いくらいの時間を迷ってきたのが私なのだと。そしてこのまま死んだら迷っていくのだという生命観です。始まりも無く終わりも無い無限の迷い。ここから抜けだすのが成仏です。
つまり、私はこれまで迷ってきたが今生は仏に成るために生まれ、(浄土教的には)死んだら仏になる命なのだ、という始まりと終わりが人生に与えられる。これが仏教徒としての主体性です。今生きている命に責任を持ち担うということですね。
もちろんもっと世俗的な領域で、人の役に立つためとか、夢を追いかけるためとか、〇〇を手に入れるため、といった生きる意味を見出すことも悪いことではありません。
でもそれでも必ず死ぬ時には身一つで死んでいかねばならないのですから、いつかは誰もが根源的な問いにぶち当たるのではないかなと思います。
その時、仏教の教えはこの問いと共に歩んでいくための智慧と勇気をくれるものであるでしょう。