生まれた時点での貧富の差、教育について
こんにちは
保育士をしている物です
私には自身に父親、塾教師からの被虐経験があり、
誰にも話せないまま今まで生きてきました。
これからを生きる子どもを多角的に見守りたい思い、子どもを養護しまたは教育をつける事のできる保育士になる事を大学卒業後決意し、国家資格を働きながらとりました。
自身の愛着面には未だ問題があり、愛されてきた子ども達を見る事は苦しい事もありますが、自分がやりたかった保育を見つけ、真摯に職務についてきました
最近、私と一部似たような境遇を持ち、
家庭の事情により学歴が中卒、少し前に成人した友人が出来ました
友人の環境は、
親の再婚、可愛がられる腹違いの兄弟、金使いの荒い母により貯金を全て使われてしまうなど、気持ちが休まる事の無いひどい状態で生活をしています
先日、友人がぽつりと
「友達は色々話してくれるけど、話すだけで手助けはしてくれない、きっと皆居なくなってしまう。こんな事は話しては駄目だけれど、どうしようもなくつらい。もう頑張れない。」
と話をする場面がありました
私は友人にアドバイスをしてきたつもりでしたが、初めて自分は本当の意味での彼女と自分の環境の違い、また、選択肢が沢山ある自分、限られた選択肢の内でしか選べない友人、本当の意味で気持ちに寄り添っていないアドバイスしか出来ていなかった事に気がつきました
福祉なら学歴を気にせず努力で正社員になれる、と。
一番友人が困っている事は、アルバイトをしていても、
親にお金を持っていかれる、
返して貰えるとはいえ少量ではあるが親による借金がある事の余裕の無さだろう、と私は考えています
実家を出て住み込みで働くにも、その後誰にも相談できる相手がいません
私は万が一本当に友人が困った際は、
返済はない事を前提に金策をいくらか渡そうと考えています
これは、私なりに考えた結論です
私自身の生活もある為、きっと世間ではでは端金にしかならない額です
借金を減らしても、また母親に友人はお金を毟られてしまうのでしょうか
これは友人の為になる事でしょうか?
「私が気がついて守れるのは園に通う子ども達だけだ。では保育園に来ていない子ども達は?私が知らない子どもは?すでに大人になった子どもは?」
見えない場所での教育の取りこぼしに、保育士としての自己肯定感や生きる意欲もまた低下しつつあります
どうかお力をください
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
社会問題と身近な問題
こんにちは、初めまして。
社会問題と身近な問題、両方の質問だと見受けました。
前者の方は、質問文末尾にかかれていた内容です。
保育士である自分が出来ることは、「園に通う子ども達だけ」であり、「園に来ていない子ども達」、更には「すでに大人になった子どもは」、という「見えない場所での教育の取りこぼし」に「保育士としての自己肯定感や生きる意欲もまた低下しつつ」あると書かれていています。
ご存知でしょうが、一生懸命の元になった一所懸命という言葉があります。中世の時代に主君から賜った一か所の領地を命がけで守ること、です。つまり一つの所というスケールは小さいが、丁寧に自分の役割を果たす、ということです。社会は、人それぞれの一所懸命を一生懸命に尽くすことで成立しています。この点は、余り気負わずにむしろ丁寧にこれまで通り子どもたちの成長を見守ってあげてください。その集積が、大人の社会の健全化につながるのですから。
身近な問題としては、ご自身の友人についてですね。
勿論、あなたの「結論」なのでご判断はおまかせします。
あなたの他者を助けようという志は立派です。
しかし、「返済はない事を前提に金策をいくらか渡そう」ということの用途は、ご友人とよくお話されたほうがいいのではないでしょうか。「借金を減ら」す、あるいは「母親に」みすみす「お金を毟られてしまう」ような用途にお金を投入しても、それは焼け石に水のような気がします。何か、資格を取る、学歴につながる一部として当てる、などご友人の確実にプラスに働くものに使ってもらうのならば「金策」も有効ではないかと思いました。
過去のご質問も拝見しました。
あなた流で一生懸命生きているお姿を想像します。
自分の出来るところで、無理のないところで生活なさってください。
私もここで、他者の何らかの助けになればと毎日書いています。
それは、大河の一滴に過ぎないでしょう。
でも、一滴でもいいと思っています。
自分の出来るところで社会に貢献するのは、私もあなたも同じです。
共に役目を果たしていきましょう。
「人間」という概念は仮(実体がない)
貧富の差の反対、平等を考えるときの前提に、「同じ人間」という概念・観念で一括りにする考え方がありますね。
仏教的には、「人間」というカテゴリー分けは、概念上の仮の存在であり、実体のない幻みたいなものです。
つまり、「同じ人間だから平等であるべき」という考えがそもそも「幻」なのです。
平等と言うなら、人間も犬もミミズも平等であるべきなのです。
現実的には、一人ひとり一匹ずつ、才能・素質・資産・育った環境が違います。
貧しい家に育っても、健康な身体の遺伝子を親からもらっているなら、実は恵まれているとも言えます。
清潔な水が蛇口から出てくる日本に暮らせるだけでも、世界全体から見ればリッチな生活かもしれません。
あまり「平等」に執着しすぎると、怒りの煩悩により、ストレスや憂鬱や争いの原因にもなりますね。
一匹ずつバラバラの個性・環境だというスタート地点から、基本的には弱肉強食だけど、多少の助け合いができる地球に生まれたことを喜び、
今の自分にできることをできる範囲でやればオッケーだと考えてはどうでしょうか。
その方が、お気楽極楽に暮らせる気がします。
教育についても、貧しいけれど頭が良い遺伝子の子どももいれば、頭は悪いけれど塾に通えるお金持ちの子どももいます。
親からもらえるのは、物理的な財産だけではない。遺伝子や健康や知識や生活習慣などもひっくるめて「お宝」かもしれません。
今あるお宝をどれだけ有効活用できるか。他人との比較より、自分自身の成長に焦点を当てれば楽しいかもしれません。
質問者からのお礼
貴重なお話をありがとうございました、
また保育士を新しい場所で続けていますが、限界なのか情緒は表面上落ち着いている気もするのですがあまり心持ちがよくありません、
またとりとめない質問を投稿させて頂くと思いますが、どうぞこれからも宜しくお願いします…