精神疾患は人間の…
私は 警備会社に勤務している 警備員です。
先日 会社の健康診断で 気になる点がある…という事で 産業医の面談を受けました。
産業医の指導の中で、かなりの激務を無理して 従事している、このままいくと 半年以内に うつ病を発症する、心療内科を受診して下さい。と ありました。
そこで 心療内科を受診すると【適応障害】の診断を受け 診断書をもらいました。
まさか、自分が 適応障害になるとは 思ってなかったし、
今後の事を考えると 人事異動で 職場に迷惑かけるだろうなぁ…という思いでいっぱいです。
しかし何より思うのは、『適応障害みたいな 精神疾患にかかるのは【甘え】じゃないか、という罪悪感です。
よく教えに『神仏は その人が 乗り越えられない試練は与えない』と言いますが、仕事をこなす事が出来ず、また 適応障害を発症する自分は 神仏も見放す程の屑なんだろうな…と 自責の念にかられてます。
上司や同僚の信用に応える事が出来ず、甘ったれた根性なしの自分なんて 最低の人間なんだ…という思いで いっぱいです。
やはり 精神疾患を患うという事は 甘ったれの根性なしでしょうか?
お坊さんの意見を伺いたいと 思います。
警備員を15年以上やっております。 仏教のみならず、宗教や古の教えなどに興味があります。 お調子者ではありますが宜しくお願い致します。
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御自身をいたわって上げて下さい。
『神仏は その人が 乗り越えられない試練は与えない』…確かによく聞きますが、一体どこから出た言葉なのでしょう。
またもしそうなら、「神仏は その人が 乗り越えられる程の試練を与える」存在となります。
「神仏」が、「受け止める側の人間の意向を聞かず、多分大丈夫だろうと思う試練」を、勝手に「押し付けてくる」のでは、受ける側はたまったものではありません…。
結論として、最初の言葉は「苦しんでいる人を励ます意味で誰かが生み出した言葉」に過ぎないんですよ。
しかも、この励ましというのが厄介です。良かれと思って掛けた言葉が、「じゃあ、やっぱり頑張らなきゃ!」と、人を追い詰めていくことさえあります。
正にあなたが今その状態にいらっしゃるようです。
『精神疾患を患うという事は「 甘ったれの根性なし」』などではなく、実は真面目で一生懸命の証拠です。
この世をトコトン真面目に精一杯生きていると、余りの矛盾や不公平に愕然として、その状態を何とも出来ない自分に絶望し精神を病んでいきます。
皆そうなんです。私が今のところ一応、鬱病の診断を受けていないのは「私がいい加減で、不真面目で、適当」だからです。ホントです。
私は「しっかり」出来ないのです…その分「仏様がしっかりして下さっています」。
そして、この文を逆に頂くことが大切です。
「仏様がしっかりして下さっている」ことは、「私がしっかりせず、適当で、悩みや苦しみから逃れられないことの証」と受け止めるのです。
「まさか、自分が 適応障害になるとは 思ってなかった」とは本音でしょうが、仏教に「まさか」はありません。因と縁が整えば、どんなこと(結果)だって「必然的」に起きるのです。
ですから、どうぞ御自身を責めることなく、ありのままの御自身を受け止め、いたわって上げて下さい。
なぜなら、あなたのことを仏様がそのまま認め、受け止め、ねぎらい、お慈悲の心で愛でて下さっているからです。
どうぞ、御身御大切にお過ごし下さい…。
質問者からのお礼
小林 覚城様
『神仏は その人が乗り越えられない試練は 与えない』に関する解説をして下さり、救われる思いでした。
元気な時に聞けば『よし、頑張っていこう!』と思えるような言葉でも 精神が病んでいる時には 傷をえぐるような言葉になるんだ…と 感じました。
また 適応障害になった私の事を 受け入れて下さり 有難うございます。
【真面目で 一生懸命】という言葉に 今までやってきた事は 無駄じゃなかった…と 救われる思いでした。
本当に 良きアドバイスを 有難うございました。今は 養生しながら 今後の事を じっくり考えて いこうと 思います。