自己嫌悪とこれから
数年前、自分が痴漢をしてしまったのではないか…という恐れについて質問させていただきます(痴漢に性的欲求や快楽を感じたことはありません)。最低なことに、一人で思考することに疲れてしまいました。
上記の考えを抱くようになったのは2年弱前のことです。友人と会った帰り道、ふと頭の中に湧いてきました。SNSで痴漢防止のツイートを見たからだったと思います。それからというもの、自分が痴漢をしてしまったのでは、という思考が止まりません。
確かに事実であるのは、電車に乗っている際、「もし痴漢したら、捕まるよなぁ。」と思ったことがあったということです。これは事実です。一回でもこのような考えをした人間がまともなはずはないと感じます。
痴漢をしていたとしたら、その罪を覚えていないなんて最低だと思います。被害者の方に一生癒えない傷をつけてしまったのですから。しかしそれと同時に、流石に痴漢をしたら覚えているんじゃないかとも思ってしまいます。
また6年前今回と似たように、「自分は万引きしてしまったのでは…。」という考えを持ったこともあります。きっかけはポスターを見たからだったと思います。当時は痴漢の件と同じく、実際にしたか否かが全く判断できませんでした。しかし今では「いや、自分が万引きなんてするわけない。」と、当時の自分の恐れを否定することができます。
しかし、万引きの件を否定できたからと言って、今回の痴漢の件も否定できるとは限らないですよね。実際に自分の罪を自覚しないまま犯罪に手を染めるケースもあると思いますし。
「自分は痴漢していない」→「では、そもそもこんなこと考えないはず」
「自分は痴漢した」→「では、流石に覚えているはずだし被害者に申し訳なさすぎる。」
という考えを持っているということです。
この考えは日によって大きく違い、例えば一昨日は「自分絶対そんなことしない、こんなこと考えるなんて馬鹿。」と思えました。しかし今日は「やっぱり自分は痴漢したんだろうな、ゴミ野郎だ。生きる価値は無い。」と思います。やったと仮定して生きる方が良いことは理解しています。
はっきりしないことが一番怖いです。公に書き込むことで、どうせこいつは痴漢をしたんだろう、と思われるのを怖いと思う自分が嫌です。自分はどう生きていけば良いのでしょうか。生きて良いのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
依るべきものは思考・感情ではない
ご相談拝読しました。記憶が定かでなく、ご自身の思考に囚われやすいこともあって混乱の最中にあることとお聞かせいただきました。
混乱している自分がその自分について判断しようとしてもグルグル堂々巡りするだけです。新たな判断材料でもない限り結局は「こうに違いない」と自分に言い聞かせ、「でもやっぱり…」と不安になることの繰り返しではないでしょうか。
私が心配なのは
>一回でもこのような考えをした人間がまともなはずはないと感じます。
という点です。これは人間という者をキレイな存在として見過ぎです。縁(条件・環境)さえ整えばどんな考えも浮かび、どんな行動をも為し得る危うさをもった存在が人間です。
痴漢を例に挙げていただいてますが、「もし○○(犯罪行為など)したら」ぐらいのことは誰でも考えたことがあるのではないでしょうか。
全ての思考・感情は外環境と関係なく自分で起こすというものではありません。あなたの問題視するそれが啓発ポスターを起因としているように、あなただけの中から出てきたものではないのです。
自分で「こう思おう」あるいは「こう思わないようにしよう」としても外で何か見たり聞いたりしたらすぐそれに引っ張られるのが人間です。つまり思考や感情は園程度のものとも言えるのです。少なくとも最も依るべき根拠となるものではありません。そこを頼りにするから迷うのです。
色んな思考・感情が浮かぶのでしょうが、「ああ今度はこんなものが浮かんできたなあ」と俯瞰し受け流せる練習をしましょう。
思考・感情をコントロールするのではなく、浮かんできたものに手をつけないというか、浮かんできたままに「そんなことも(考えとして)あるものだな」という具合に置いとくのです。それを中心の判断材料にしないということですね。
これからもきっとあらゆる汚い思考・感情が浮かび得るでしょう。でもそれが人間なのです。
その事実を認められたら生きやすくなると思います。それらに飲み込まれ、振り回されるのでなく、それこそが自分だと頷くからこそ、実際にそうしないように気をつけて生きていけるもの。
これからも迷いながら生きて良いのです。迷う者が自分の迷いに気がついたらたいしたもの。思考感情に迷いを超える根拠があるとするのは最も深い迷いでしょう。
偏らないのがいいと思います。
こんにちは。初めまして。
ご相談内容を拝見して「健康な若い人」という印象をもちました。
実は、お釈迦様のもとに集まり修行していた人も同じように悩んでいたようです。修行者は、性行為はもちろんマスターベーションも禁じられていたようです。でも、健康な10代20代の若者、男性の場合は性器が衣服に擦れるだけでも射精してしまうことがあります。それは、生き物として備わっている「身体のしくみ」ですからどうしようもありません。その件はお釈迦様も苦心されたようで、性行為については事細かくルールと罰則があったようです。
仏教には、戒と律があります。戒は、修行をすすめるための自発的なルール。律は、社会の皆さまに信頼してもらうための他律的なルール。現在の日本はどうでしょうか? 結婚して子供がいる僧侶もたくさんいますね。
もし、あなたが異性と触れることを極端にタブー視しているとしたら、現在の日本社会では、そこまで神経質になる必要はないでしょう。また、電車の中で異性をみて邪な妄想がでてくるなら、まさにお釈迦様の時代から続く仏教徒共通の悩みかもしれませんね(異性と書きましたが、同性に性指向が向く場合は同性と読み替えてくださいませ)。
「偏らないで生きる」が、仏教徒共通の願いではないでしょうか。
ゆっくりと見つめ直して下さいね
拝読させて頂きました。
あなたがふと、SNS等で目に入ったことが頭から離れずにずっとこびりつくよう覚えていて、寝ても覚めてのそのことに振り回されてしまっているように感じます。
人間は何気なく見ている風景やTVのCMや流れてくる音を実はよく覚えているものです。何かの拍子にフッと頭の中から湧き上がってきてまるで交通事故でぶつかったときのような衝撃の様にインパクトがあるものもあるのです。どうしても忘れたくても忘れられないようなものごとはそれぞれの人にあるのです。
あくまで想像ですがあなたの頭の中で「痴漢」や「万引き」がこびりついてしまっているのではないかと思います。そしてあなた自身をマインドコントロールしてしまい、自分がやってもいないことをさもやってしまった様な印象を植え付けているのではないでしょうか。
ですから先ずはゆっくりと呼吸なさってみて下さい、そして屈伸運動やストレッチをやってみてあなたの心も身体も落ち着けて見て下さいね。そして呼吸を整えて力を抜いてリラックスなさって下さい。そうしてあたたかな緑茶等を召し上がって下さいね。あなたの心も身体もリフレッシュなさって下さいね。
そうしてみてあなたの心にゆっくりと問いかけてみてはいかがでしょうか?冷静にあなたの頭の中を見つめてみてはいかがでしょうか?あなたの日々の考えや言葉や行いを見つめ直してみて下さいね。
大丈夫ですからね。あなたがこれからもお健やかに成長なさり、心おおらかに豊かな毎日を生き抜いていかれます様心よりお祈りさせて頂きます。
質問者からのお礼
三浦様
回答ありがとうございます。やったかやっていないのか、ハッキリさせなければ…と感じていただけに、「偏らず、」という考えに感銘を受けました。自分だけでは思考に限界を感じていたので、三浦様の意見を伺って、ホッとしました。本当に、回答ありがとうございました。
Kyosyo様
自分自身をマインドコントロールしている、という箇所が印象に残りました。思えば、これらの件以外にも、かなり病的な思い込みをしていた時期もあったことを思い出しました。思考の癖になっているのかもしれません。このことに気づかせてくださって、ありがとうございます。回答ありがとうございました。
吉武様
思考や感情はその程度のもの、という箇所にハッとさせられました。思い返せば、自分は人の考えや流行に左右されやすい人間でした。客観的に見ることを意識できていなかったのかも知れないです。一つ区切りがついた気持ちがします。回答ありがとうございました。