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自分の言い方

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有り難し有り難し 10

最近、誰に言われた、とかはないのですが、職場で同僚に対して、上から目線で言っているのでは?と思う事があります。
気を付けて話しをしていますが、言った後に、もしかして?と言う事があります。
なので、もしかしたら同僚に嫌な人だ、とか嫌われているかもしれません。
信頼出来る同僚に相談したら、人によって捉え方は違うよ、と言われました。
何かアドバイスがあったらお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

過剰な防衛反応の心理が自分の時として害することがある

(´-ω-`)人間嫌なことを経験すれば二度と同じ目にあいたくないものですから、同じようなことに遭遇するたんびに「ああ、またおなじようなことがおこるのでは?」と高速反応するのです。それが自分の身を守ろうとする意識、防衛意識です。防衛意識と書くと固いので「おまも(守)ちゃん」としるします。
「おまもちゃん」はあなたの為に危険な目に合いそうなときに登場してくれるのです。「ご主人様をあの危険な目に合わせたくないっ」とばかりに守ってくれる心理作用がおまもちゃんです。ですが、おまもちゃんはあなたを守るというその任務上、つい早とちりをしてしまうこともあるわけです。似たようなことがあったら割り込んで「大丈夫ですか?ごしゅじんさま?」と防衛信号を発するのですが、そうじゃないことにも過剰反応したり、悪意があったわけではないのに悪いものとして認識させちゃうようなこともあるのですよ、おまもちゃん。
過去にあったネガティブ反応のシーンをちょっと思い返してみましょう。ああ、そういわれてみればあの時の自分尾を守ろうとした反応は確かにそれだったのかもしれないと思えてくるのではないでしょうか。はい、それは確かにおまもちゃんです。
そのおまもちゃんをバージョンアップ、アップグレードする方法があります。
おまもちゃんは基本プランですと(携帯か)早とちり機能と時々煩悩ナイズするという旧式設定なので冷静に自己のリアクションをみつめるという行為によって不具合が無くなり性能が向上します。
物事には「最初から嫌なこと」というものはありません。
ゴミ捨てもトイレ掃除も嫌いな人との会話も本当に本当は最初から嫌なもの・嫌なことということはありません。
実はそれを瞬時に嫌なものに思わせているのも「おまもちゃん」の防衛作用なのです。あなたの身を守るために似たような経験を悪いものと思わせていることがあるのです。その事対して事前にこちら側が過去のデータから「どうせこうだろう」決めつけてしまうから嫌なゾブゾブちゃんが煩悩となってあなたを苦しめるようになっているとおもいませんか?もし、そこが見抜けるようであれば、今後のリアクションを冷静にしずかにゆっくりと見つめてみてください。おまもちゃんの精度が高まり、これは悪いものだ、とかあらかじめ決めつけてしまう心が静かになることでしょう。おまもちゃんをバージョンアップするお話でした。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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