完璧でなければ意味はないのか?
現在うつ病で休職中です。
うつ病のきっかけは完璧主義的な考えから来る対人関係(お客様への接客)、仕事のミスの増加による心身への負担が増えたことによるものでした。
元々全てのことに対して完璧でなければならない、という考えが強く、また曲がったことが嫌いな性格のため敵を作りやすく、学生時代はいじめにあうこともありました。
そのため完璧にこなせない自分が嫌でうつ病になってしまいました。
うつ病と診断されてからは事あるごとに「他の人は完璧にこなせるのに何故自分は出来ないのか」、「自分みたいに何一つ完璧に出来ないやつは生きていても仕方ない」と考えてしまいます。
また、両親は私がテレビをみている際に何か文句を言うのが嫌らしく、何か言うとすぐに「完璧な奴なんかいないんだから文句ばかり言うな!」と怒鳴り付けてきます。
世の中完璧な人間などいないと言いますが、果たしてそうなのでしょうか?
やはり人間完璧でなければいけないのでしょうか?
完璧でも無いくせに人様に文句を言ってはいけないのでしょうか?
そういう風に育ってしまったので、私は完璧な人間以外生きている意味はないと思っています。
だから自分も完璧ではないので死んだ方が良い、と考えてしまいます。
これから私はどうしたら良いのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「完璧」以外の見方を探る必要性
こんにちは。
「うつ病」とのことなので、先ずはどうぞお大事になさって下さい。
縦30cm、横30cmの厳密な正四角形をフリーハンド(定規等なし)で書いて下さい。
こう言われたら私は書く自信がありません。
自分では真っ直ぐなつもりで書いた線も、上下で平行でない可能性があります。
線も29.9cmかもしれません。
角度も90度ではなく、89.99度かもしれません。
しかも、その正四角形を誰かと共同で書いて下さい、となるともっと難しくなります。二人共完璧でないと成し得ないからです。
あなたは、「完璧主義的な考えから来る対人関係(お客様への接客)、仕事のミスの増加による心身への負担が増えたこと」が休職のきっかけだと書いています。これは、自分のハードルを極端に上げすぎて自分を追い込んでしまったことが一つ。そして、周囲にも同じことを求めたらからではありませんか。
「両親は私がテレビをみている際に何か文句を言うのが嫌」と書いています。「完璧」の矛先を他者に向けている様子が伺えます。
自分にも超厳しく、他人にも超厳しい。
自分も持たないし、他人も持ちません。
「完璧」はあくまで方向性です。
ベターのための指標です。
「そういう風に育ってしまったので、私は完璧な人間以外生きている意味はないと思って」とあります。「だから自分も完璧ではないので死んだ方が良い」とも。
過去の生育過程に問題があるということも考えられるでしょう。
ただ、あなた自身がこの考え方はおかしい、人間の、自分の実情にあっていない。変えよう、と思えば少しづつ変えていけるはずです。
「完璧」になるために生きているのではありません。
また、人間を「完璧」という観点だけで見るのを辞める必要があります。
そのために、人間を人生を、不完全さ、感情、美しさ等々多角的な観点で見るとよいでしょう。美術、音楽、文学、映画等々、とにかく「完璧」以外の切り口を一度探してみましょう。
感情を上手にコントロールすることが完璧である。
拝読させていただきました。
目に見えることや、あらゆる現象に対して完璧になることは物質的なことに捉われているものでありまして、「心に柔軟性」を持つように知恵を働かせていくことが、自身の感情に対してイチイチ囚われたり、こだわったり、かたよらない思考が完成していく完璧へと変換を遂げていくものであります。
空の思想こそ、無明(迷い)から解放されるものです。
今まで完璧主義というものに到達したからこそ、完璧とは何であるのかということに気付かれたことであり、無駄なことではないのだという思いも持ち合わせてください。
合掌
質問者からのお礼
回答いただきありがとうございました。
どうせ完璧になれないならなれないなりにやれることをやってみます。