「人徳」について再び
三カ月ほど前に、10年来念頭を去らない「人徳とは何か?」という問題について質問させて頂き、釋悠水先生からはとりわけ懇切なお返事を賜り、深く感謝しております。さきにも申し上げたように、10年前、御縁のあった仏教者(故人)から、当時リストラに遭って間もない私へ
「すぐに救いの手が伸びて来ないのは、君に人徳がない証拠」と
言われ、これには思い当たる節もあるので、それだけにひどく落ち込みました。
今は医療機関にも、その他の支援機関さんにもつながっていて、こういうことでも御相談申し上げられるので、かなり癒されましたが、今でも何かの拍子に古傷が疼かないと言えばウソになります。そして、抗弁しようにもその方はお浄土へ赴かれて久しいです。
釋先生の御教示を幾度も読み返したり、定期的に相談しているかたがたへ意見を仰いだり、だいぶ脳内が整理されて参りました。
思えばあの当時の自分は確かに、決して健康体ではなかったその人へ不快感を与えるような声や態度を示したのかもしれません。でも、今さら過去に戻れるわけではないし、たとえ何かの魔法で10年前に戻ったとして、未熟な私ゆえに、やはり同じような結果になるのではないか…と思います。
それで、今も気が滅入ってしまうシチュエーションとは……何かの折に、私よりももっと阿呆らしいことを仕出かして失脚した者たち(痴漢とかしょーもない失言とか)が、以前と同じ地位に返り咲いたという記事や情報に接した場合です。
自分はこういう人々よりも人徳がないのか?と落ち込み自責し、なすべき仕事が30分近くも手に着かないなんてことがままあります。
「比べることは不幸のはじまり」とは、お寺の御住職の法話などでよく拝聴します。そうおっしゃるお気持ちも素直に理解できますが、それでも上記のような思考回路に陥ってなかなか抜け出せません(薬物療法は受けております)。いかにも心苦しいのですが、定番的な「比べることは不幸のはじまり」に加え、何か御守りになりそうなお言葉や思考方式などありましたら、ぜひとも御教示頂きたく願っております。ここまで駄文をお読みくださいまして、回答僧諸師へ心より御礼申し上げます。ありがとうございました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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共生共栄
周りの言動が気になりますか?
他人からの評価が気になりますか?
心を落ち着かせ、自分を深く見つめることです。
人徳云々は後から付いてくるもの。
とにかく自分自身を鍛えることです。
痴漢とか、しょーもない失言をした人間を、「阿保らしい者」とされておられますが。
確かに、その行いは愚かなものであります。褒められたものではありません。
しかし、気を付けなければならない。そこへと至る経緯は本人しか知らない。一歩間違えれば自分がそこに在るかもしれない。
決して驕らぬことです。
比べるということをすると、自分か他人か、どちらかを貶めることに繋がります。それではいつまで経っても苦しみの輪から抜け出すことは叶わない。
あなたはあなた。周りは周りの生き方でよい。
決して慢心せぬことです。
「共に生き、共に栄えよ」
周りを羨むでも蔑むでもなく、互いを尊重しながら生きて下さい。
拝
質問者からのお礼
日延上人、そしてお取り次ぎくださった事務局の皆々様へ
答えづらい質問に対し、懇切なお言葉の数々、ありがとうございます。御縁のあった仏教者(故人)とは、浄土門系の御方でありました。こんなことがあっても浄土門をも含む仏教が嫌いになったわけでは全然ありません。ただ、ことこの悩みに関しては、法華や禅や真言といった、非浄土門の御僧侶からのお言葉を賜りたくかねて念願しておりましたので、貴師のお言葉にはただただ感謝あるばかりです。
「比べるということをすると、【自分か他人か、どちらかを貶めることに繋がります。】それではいつまで経っても苦しみの輪から抜け出すことは叶わない。」
【 】内の視座は、単に「比べちゃいけない」とばかり自分に言い聞かせて来た私にとって、目から鱗の新たな恵みであります。誠にありがとうございます。
ややさかのぼって
「人徳云々は後から付いてくるもの。とにかく自分自身を鍛えることです。」
これも目が覚めるような御教示です。余生において、どこまでこの「自分自身を鍛えること」ができるかどうか、いかにも心もとないのですが、御縁の許すままに邁進致します。まことに、まことに有難うございました。合掌