「無常」について理解出来た気がするが…
初めて質問させて頂きます。長文になってしまい申し訳ございませんが、宜しくお願いします。
私は歴史が好きなのですが、とりわけ源平合戦が好きです。二つの氏族が覇権をかけて争う中での栄枯盛衰や、その過程での日本中を巻き込んだ争乱の数々。これ程までに歴史のダイナミズムを感じられる出来事は中々無いと思ったからです。
なので、先日神戸に行った際、一ノ谷の戦いの戦跡を巡ろうと思い立って観光し、道中、是非見たいと思っていた須磨寺に立ち寄りました。須磨寺には、宝物として平敦盛の武具や青葉の笛が置かれていることが有名ですが、これらを見た時、私は非常に大きな衝撃を受けました。
勿論、平家物語の「敦盛最期」は作中屈指の有名な悲話として、私も知ってはいました。しかし、それはあくまで「物語」としての認知に過ぎなかったのです。知識としては現実に起きた事だと知りつつも、現代とはあまりにもかけ離れた武士たちの世界観や壮絶な出来事の数々に、実感としては完全に物語上での出来事でした。
ですが、敦盛の遺品と、敦盛を殺した苦悩から出家した熊谷直実が、彼を弔うために書いた「南無阿弥陀仏」の掛け軸は、実際に寺にあったのです。
こうして、到底現実の出来事だと実感出来なかった源平合戦を、現実の出来事として否応なく突きつけられ、私は恐ろしくなりました。平家物語に登場し、様々な運命を辿った武将たちの人生もまた現実の物だと、同時に思い知らされたからです。
都での優雅な生活を捨て、戦いに身を投じる事を憐れみつつ奮戦して亡くなった者。戦いに勝利しつつも、哀れにも反逆者となり亡くなった者。戦乱の中で志半ばに自害した者。そして、熊谷直実のように出家した者。
また、源平合戦だけでなく、数々の戦争や動乱に人生を左右された無数の人々…。
歴史という大きな流れの中で翻弄されていく人々が現実に居たのだと、心から実感出来た時、歴史の中での個人の無力さと儚さに恐怖を感じ、平家物語が言わんとしている「無常」を、心の底から理解出来たような気がしました。
果たして、無常について理解出来たようなこの感覚は、悟りに近いような物なのでしょうか?
仏門に入ってもいない者が、軽々しく悟りなどと申し上げるのは気が引けるのですが、世の中に対する一つの見方が生まれたような感覚が不思議だったため、質問させて頂きました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
諸行無常
拝読させて頂きました。
そうですね、あなたがそう感じるこの世は仮のものですね、ものごとも人々の常に移ろい行き、ひと時としてとどまることはありませんよね。
平家物語の最初の下り「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を表す 奢れるものは久しからず ただ春の夜の夢の如し たけきものも遂には滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ」
あなたが感じた世の無常はまさに仏教の教えの根幹ですね、真理ですね。
そのことわりをこれからどう自分自身が受けとめていくことができるのか、どうかがあなたのこれからの修行・精神修養かと思います。
自らの命や人生や大切な方々の命やつながりをこれからどう受け止めて生きていくことが善き道なのかをこれから試行錯誤なさっていかれることと思います。
時代変われども人間の本質や心のあり様は変わりませんからね。
あなたにとってとても大切な実体験になられたと思います。
あなたがこれからもその様に大切なことを見聞きしながら身をもって体験して修養なさりご成長なさっていかれます様心よりお祈り申し上げます。
どうかこれからも共に仏様のみ教えを学び、自らの生活の中で実践していきましょう。至心合掌 南無釈迦牟尼仏
質問者からのお礼
ありがとうございます。
非常に、ためになる御回答でした。