周りの人が眩しく見えてしまう。
前回の質問の続きのような質問です。前回の「過去の過ちにとらわれてしまう」という質問に対しての「今、どうであるのか」を仏様は見ておられるという回答に救われた気が致しました。改めてこの場を借りてまず御礼申しあげます。
しかし、もうひとつ心に影を落とすことがあります。それはこんな自分に対して周囲は(自分で言うのも何ですが)それなりに期待し、信頼し、場合によっては愛してくれているということです。
今現在どんなに正しくあろうと生きていても過去は一生変えられません。そんな過去を隠し付き合っている自分がひどく嘘つきの偽善者に思えて、後ろめたさを感じ、それに伴って周囲の人がとても眩しく感じてしまいます。
また、自分で蒔いた種なのですが、いつか、自分がもっと幸せになった時に今までの過ちが露見してしまうのではないかとも不安になってしまいます。
自分で過ちを犯しておきながらこんな風に自分可愛さの感情ばかり沸いてしまう心は、やはり悪なのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
後ろめたさより、いつもありがとうと。 そんな気持ちを大切に。
前回の質問も読ませてもらいました。
あなたが今こうして、我が身を振り返り しっかり立とうとなさっていることに、嬉しく安心を覚えます。
確かに過去は変えられない。それは、背負っていくことでもありますね。ただね、失敗や過ちのない人なんて、いないわ。皆それらの経験から、大事ことを学んでいきます。眩しく見える周囲も、いろいろあるものよ。
悪なき正しい生き方を!と思わずに、足元をちゃんと見れる自分であればいいのではないですか。
経験や出会う人たちの愛が、あなたに大切なものを気づかせてくださいますよ。そんな周りに恵まれていることを喜んでいけたらいいですよね。後ろめたさより、いつもありがとうと。
そんな気持ちを大切に。
質問者からのお礼
中田 三恵様、返信ありがとうございます。「足元をちゃんと見れる自分に」という言葉、とてもすっと腑に落ちました。これからも私は(もちろん犯罪ではない)過ちをたくさん犯してしまうでしょう。その時に常に一歩冷静になることを心に刻もうと思います。
私は何事もなければあと数十年は生きることになるかと思います。今まで迷惑をかけてしまった人への謝罪と幸せを願いながら、前を向いて生きていけるように頑張ろうと思います。ありがとうございました。